京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

令和元年 最終拝観①奈良當麻寺

2019年12月28日 08時50分00秒 | 日記
 12月27日は年内最後の休みでした。
午前中は予約していた近所のリラクゼーションへ。疲れが溜まっていた身体を気持ちよく解して頂きました。

その足(自動車)で向かったのが奈良県葛城市にある古刹當麻寺です。





當麻寺の創建は推古天皇20年(612)まで遡ります。
用明天皇の皇子麻呂子親王が兄聖徳太子の教えにより、河内国山田郷に萬法蔵院禅林寺を創建され、その70年余り後に、親王の孫にあたる當麻国見が現在地に移し、天武天皇9年(681)に現在の伽藍を造営、寺号を當麻寺と改めたのが始まりです。







写真のように、本堂、金堂、講堂とありますが、金堂が本堂ではなく、文亀曼陀羅をお祀りする本堂(曼陀羅堂)が中心です。
本来のご本尊は国宝當麻曼陀羅ですが京都国立博物館に寄託され、ほとんど公開される事はないです。
しかしながら、2017年秋に行われた京博での「国宝展」に出品され貴重な機会を得ました。(随分と劣化が進んでいて何が織られているのか判明しにくい状態でした。)

金堂のご本尊は弥勒仏で白鳳時代の塑像で国宝。ご本尊をお護りする四天王も多聞天の鎌倉時代を除けば三体が白鳳時代の作で重要文化財です。

講堂もご本尊の丈六の阿弥陀如来坐像をはじめ三体が重要文化財していを受けています。

本堂建築物も国宝、文亀曼陀羅を納めている厨子も天平時代の作で国宝、内陣の須弥壇には鎌倉時代寛元元年(1243)の銘文があり、階段部分には螺鈿細工が施され、こちらも国宝指定を受けています。

當麻曼陀羅は、天平宝字7年に中将姫が蓮糸で一夜にして織り上げたと伝えられる綴れ織り曼陀羅でお経の中の感無量寿経に説かれている西方浄土の世界が描かれています。
多くのお寺に伝わる當麻曼陀羅はこちらの曼陀羅がオリジナルです。
まさに當麻寺は白鳳から藤原時代の宝庫なねです。




梵鐘は創建当時のもので国宝です。





石灯籠の素材は凝灰岩で、造られた創建当時のもので国の重要文化財です。(日本最古の石灯籠)



二基の塔のうち奥に見えるのは天平時代創建の東塔、手間は奈良時代から平安時代初期創建の西塔です。

奈良平安時代の寺院で東西両塔が現存しているのはいるのはここ當麻寺だけで両塔ともに国宝です。

境内を歩いていると遠く飛鳥、白鳳、藤原時代の息吹が聞こえてきそうな感じになってきます。

普段はひと気もなくひっそりと二上山の麓に佇む當麻寺こそ「隠れ里」ですねー!

しかし、毎年4月14日には「練供養会式」が行われ多くの人で賑わいます。
當麻曼陀羅を織り上げた中将姫の命日法要で千年以上続く伝統行事で観音・勢至を始め25菩薩が中将姫を極楽浄土へと迎えてって行く様子が表現されています。



本堂で御朱印を授与して頂き境内の塔頭爺を二ヶ所を巡ります。







奈良県吉野山②吉水神社

2019年12月28日 07時06分00秒 | 日記
 金峯山寺から吉水神社へとやって来ました。




吉水神社は、元吉水院といい、吉野山を統率する修験宗の僧坊でした。
明治政府による神仏分離令により、この地が後醍醐天皇の皇居が置かれたことから明治8年に「吉水神社」と神社に改められました。




「一目千本」と呼ばれる場所で、桜🌸の季節には山裾から山頂にかけて一面が桜🌸の花で埋め尽くされます。




源義経・静御前潜居の間
文治元年(1185)頼朝に追われたふたりは弁慶とともにこちらに隠れ住んだ部屋です。
義経と静御前の別れの場所でもあります。




後醍醐天皇玉座の間
延元元年(1336)京都から逃れた後醍醐天皇が南朝の皇居とされた部屋です。
この時から皇統が南北朝に分かれ57年にも及ぶ長い歴史を迎えます。




太閤秀吉公花見の品。
文禄3年(1594)豊臣秀吉が吉野で盛大な花見をした際に吉水院が本陣となりました。
前者の金屏風「桜の図」は狩野永徳、後者の襖絵「鷹」は狩野山雪筆と伝わります。




秀吉が基本設計した庭園で神仙思想による鶴亀蓬莱の庭です。




北闕門。
古来より修験道の山伏達はここで無事平穏を祈り九字による邪気祓いを行ったと言われています。
それよりも有名なのは後醍醐天皇の辞世の句「身はたとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」ですね。


次に中千本中腹にある如意輪寺へと向かいます。