6月9日、第一回「そう京」同窓会最後の目的地は萬年山真如寺です。
境内への入口で徒歩組の皆さんを待ち、いざ境内に。
表門の手前には杜若が咲く池があります。
葵祭の"路頭の儀"が行われる時期に満開を迎えますが、こちらの杜若は季節を問わず何輪かの花を咲かせるのが特長です。
約束の時間を少しオーバーしてしまい境内で江上ご住職がお待ちでした。
勧請開山は無学祖元(仏光国師)、本尊は宝冠釈迦如来、山号は萬年山、寺紋は輪違いです。
真如寺の歴史は、相国寺の創建から遡ること約100年、無学祖元死後の弘安9年(1286)に無学の弟子である無外如大尼が、無学の遺爪髪を祀るための塔所として「正脈庵」を築いたことが始まりとされています。
先ずは法堂(大雄殿)からご案内して下さいました。
無外如大尼の死後、正脈庵もまた崩壊に瀕していましたが、暦応5年(1342)4月15日、無学祖元の法孫で、相国寺の勧請開山である夢窓疎石(夢窓国師)が、足利尊氏の執事・高師直、尊氏の弟の足利直義の外護を受け、庵を東側に移して寺院として整備しました。
この際、無学祖元が初めて住した中国浙江省の台州にあった真如寺に倣って、寺号を真如寺としました。そして無学祖元を勧請開山に、無外如大尼を勧請開基とし、夢窓自身は第二世として入寺しました。弟子の摩訶迦葉尊者と阿南尊者がお祀りされています。
こちらは今風に言うと"ロフト"の上にご本尊さまがおられる変わった構造です。
江戸時代、1656年、第108代・後水尾天皇の第6皇女・宝鏡寺門跡19世・理昌(りしょう)の死去に伴い、その菩提所となります。
以来、歴代の宝鏡寺門跡が葬られています。天皇により法堂が再興され、以後、 相国寺派に属した。同年、後水尾天皇皇女・宝鏡寺宮月鏡尼の入寺により、以後再興されたそうです。
後水尾天皇皇女・宝鏡寺宮月鏡尼が宝鏡寺に入寺以来、宝鏡寺の尼門跡の像4体が安置されているのも珍しいです。
修復前の像です。
眞如寺に安置されていた尼僧像ですが劣化が激しく、お顔も痛々しい状態になっていました。
それを国際日本文化研究センターの教授が5年に及ぶ修復作業の末、修復を完了させたそうです。
そのきっかけを作ったのが同センターのパトリシア・フィスター教授です。
宝鏡寺境内には墓地は無く、ここ真如寺の墓地に葬られています。
また、延文3年(1358)には足利尊氏の葬儀を真如寺で行うなど、また十刹としても等持寺、臨川寺等と共に高位に位置づけられ、室町幕府の手厚い保護を受けました。
寛正2年(1461)に焼失後、応仁の乱の混乱もあり、寺は一時期廃寺状態となりましたが、明應8年(1499)以降、方丈や仏殿が段階的に復興されました。
半僧坊大権現 御開帳法要の様子。
(今回は拝観していません)
毎年5月中旬の週末に「半僧坊大権現」を開帳し、御祈祷法要を行います。心願成就・身体健康・厄難消除・商売繁盛・家内安全などに御利益があり、「厄除けの肩たたき」が行われます。
当日は「お茶席」「手作り市」も行われ、境内の杜若も見頃になります。
次に客殿をご案内して頂きました。
客殿(方丈)には、江戸時代後期京都画壇の絵師のひとり原在中筆の襖絵「四季花卉図」や「西湖図」、「雀朝顔図」などがオリジナルのまま残されています。
次に書院を案内して頂きました。
東側の青もみじが素晴らしいです。
一階からの眺めですが、傾斜の関係でまるで二階から見下ろしているかのようです。
錦秋にはこの様にもみじが真っ赤に色付きます。
是非、秋にも訪ねてみたいお寺です。
真如寺ゆかりの人物には勧請開山・無学祖元や勧請開基・無外如大尼、真如寺第二世・夢窓疎石、高 師直、後水尾天皇などそうそうたる人たちが関係する由緒あるお寺です。
先代のご住職は長らく鹿苑寺の執事長や相国寺宗務総長を務められた方です。
また、金閣(舎利殿)が放火炎上した際に、鹿苑寺の僧侶として寺におられ"最後の生き証人"として知られていましたが、残念ながら令和3年(2021)11月に他界されました。