京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

秀吉築城 聚楽第ゆかりの地を歩く

2020年11月13日 08時14分00秒 | 日記
 10月24日にJR東海「そうだ 京都、行こう。」の聚楽第ゆかりの地を歩くのイベントに参加しました。







まずは日蓮宗大本山妙顕寺からです。
お寺の一室をお借りして立命館大学の谷徹也先生による時代背景の解説が約1時間ありました。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは大河ドラマ"麒麟がくる"の通りです。

当時の京都は上京と下京に人が住んでいる状況で、その他の土地は田んぼか畑が拡がっていました。
幾多の戦乱から自身の身や町を守るために"総構(そうがまえ)"と呼ばれる堀や門、塀で町を囲み、夜には町の出入口の門を閉めて自衛している非常に治安の悪い町でした。












織田信長や羽柴秀吉が日蓮宗寺院を宿舎にしたのは何故でしょう?
当時、日像上人による布教活動で都人の多くが日蓮宗に改宗する状況でした。
その事を快く思わない延暦寺を始め既存の仏教勢力が天文5年(1536)に天文法華の乱を起こし法華宗徒を洛外に追放する事件が起こりました。

それ以降、日蓮宗寺院は周りに堀をめぐらし防御を重視した言わば"平城"のような城郭構造になったわけです。織田信長が本能寺はじめ日蓮宗寺院を常宿にしていた主な理由です。

しかし、天正4年(1582)本能寺の変で織田信長、信忠父子が明智光秀に討たれます。

以降、急速に勢力を、拡大した秀吉は妙顕寺を現在地に移転させ、妙顕寺城を築きます。
やがて天正13年(1585)関白に任じられると翌年に聚楽第の造営を始めます。

講座の後は聚楽第の痕跡を求めての町歩きです。





妙顕寺の北側にある妙覚寺の大門で聚楽第の遺構と言われています。







次に訪れたのが京都市考古資料館です。昭和51年に開設され考古学の見地から京都の歴史が良くわかる様に展示されています。
上の写真は本能寺跡から発掘された瓦です。一部は赤く変色していて炎を浴びた事がわかります。
下の写真は地下鉄烏丸線の発掘調査で出土した石仏で石垣の一部に使われていました。

もとは西陣織会館で設計は本野精吾です。





松林寺は外郭南濠跡の窪地と言われて来ましたが最近の研究では違う見解が通説になっているようです。









最後に訪れたのが佐々木酒造さんです。
蔵の中を案内して頂きました。
ご存知の俳優佐々木蔵之介のご実家で現在は弟さんが跡を継がれています。



聚楽第は僅か8年で秀吉により徹底的に破却されその痕跡を見つけるのは難しい城ですが今も残る町名や最新の調査により濠の位置が確定されつつあります。