京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

さかい利晶の杜(千利休編)

2019年10月22日 08時02分23秒 | 日記
 会社の人事転勤で兵庫県加古川市から大阪府堺市に引越ししてから早や14年が経ちました。

数年前に秋の特別公開時にレンタサイクルを借りて妙国寺や南宗寺などをを巡った事、また、仁徳陵古墳を徒歩で一周した以外は、あまり堺の歴史には関心がなかったのが正直なところです。
(千利休や与謝野晶子の出身地であるのは知っていましたが、、、もうひと方 女優の沢口靖子さん)



という訳で、堺が誇るおふたり千利休と与謝野晶子に特化した博物館"さかい利晶の杜"を初めて訪れました。









堺は古くから自治都市として発展し、裕福な町衆からなる会合衆により自治が行われていました。

しかし、戦国時代に入ると織田信長はじめ豊臣秀吉らに多額の戦費の提供を強いられるようになります。和平を選んだ会合衆たちは多額の戦費を提供し、南蛮貿易で当時、最先端の武器鉄砲の輸入にも協力して来ました。

今も"鉄砲町"に名前が残るように、堺では鍛冶職人の専門集団が存在していました。
(今でも堺包丁は名高く、多くの料理人が購入に来るようです。)

やがて、ポルトガル伝来の種子島銃を模倣し、国産の鉄砲生産に成功します。

この時期に台頭してきたのが織田信長です。
信長は茶を好み、堺の今井宗久や津田宗及と交わります。やがて千宗易が出て信長の茶頭になります。







信長が"本能寺の変"で亡なり、後継者となった豊臣秀吉も千宗易は茶頭として使え、その存在感を増して行きます。
秀吉が宮中に参内し、正親町天皇に茶を差し上げる際、無位無冠の宗易が天皇より賜ったのが"利休"と言う名です。





館内では、企画展「生誕120年 立花大亀と茶の湯」がありましたが撮影禁止なのでパンフレットをご覧下さい。










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