敬三が腰に結わえた丸い容器から白い煙が
たゆたい、茂みにひそむ蚊やぶゆたちから彼
の身を守っている。
敬三はあたりに用心しながら、雑草が生い
茂るけもの道を歩いた。
(イノシシが通ったあとに違いない、これ
は油断できないぞ。一刻も早く、はるとを見
つけ出さねば……)
突然、けもの道がとだえた。
長くのびたつる状の枝が互いに絡まりあい
けもの道をおおっている。
薄日を受けてきらりと輝いているものに気
づき、敬三は足をとめた。
野イチゴの実だった。
われ知らず、敬三が口もとをゆるめ、小さ
いが鋭いとげに気を付けながら、赤い宝石に
似た実を口にふくんだ。
(これだ、この味だ。久しぶりだな)
そう思い、ピョッと舌先で飛ばした。
互いにからみあったつるを、軍手をはめた
右手で、顔を傷つけないよう、道わきに押し
のける。
「あっ、はると」
敬三は大声をあげた。
はるとは身動きひとつしないで、一本の大
クヌギの根もとを見つめている。
樹液がとろとろと流れ出し、虫たちがそれ
に群がっているようだ。
「ほら、じいちゃんが迎えに来たぞ」
敬三はやさしく声をかけた。
大クヌギの根もとに生えた若草は、はると
の小さな靴で踏みしめられたらしい。
敬三の眼には、まるで病みおとろえた老木
が、それでもなお、乏しくなった生命力の源
を、森の生き物たちに与えようとしているよ
うに思われた。
(ご苦労さん、お前も、孫の行く末を案じ
るわしとおんなじ気持ちなんじゃな)
敬三の眼に涙がにじんだ。
はるとは、何も答えず、小枝をもった右手
で、老木の根もとの腐葉土を掘ったりさぐっ
たりしている。
「顔も手も虫に刺されて赤くなって、大丈
夫か、はると」
敬三は小さいしわがれ声になった。
はるとは立ち上がりざま、ぶっちょ面をし、
ふん、とわきを向いた。
クヌギの根もとをぐるりと掘り起こすつも
りだろう。右のズック靴の先を土の中に突っ
込んでいく。
「どうした、何か不服か?じいちゃんがわ
るいことしたか?」
「だってだって、じいちゃんが声かけたか
ら、のこぎりクワガタがどっかへ行っちゃっ
たんだもの」
はるとはクヌギの木の裏手にいる。
敬三からは見えにくい。
突然、はるとがあっと声をあげた。
「ど、どうした?ハチに刺されでもしたか。
変な虫いじるんじゃねえぞ。しっぽが二股に
わかれてる虫には絶対ふれるんじゃねえ」
「わかってるよ、じいちゃ。ちょっとこっ
ち来ないで。いま、いいとこなんだから」
しばらく、はるとが動きまわる物音だけが
敬三の耳にとどいた。
(さっきのクワガタでも見つけたんだろう。
あんまり、くどくいわねえほうがいいな)
「なんかあったら、じっちゃに言うんだぞ、
いいなっ」
「うん、わかってる。ちょっとだけ静かに
しててね」
蚊取り線香があたりにただよい、ほとんど
の虫がどこかに行ってしまった。
「虫よけの匂い、くさいね。ぼく、もうだ
いじょうぶだからね」
クヌギの裏手から出てきたはるとがにっこ
り笑った。
「おうおうよしよし、ほう、虫かごにけっ
こう入ってるな。こりゃ、お前の友だち連中
に自慢ができるってもんだ」
うん、とはるとは大きくうなずいた。
はるとが見つめていた木は樹齢およそ百年。
この森でいちばん年老いている。
四十年くらい前、敬三はこの森でシイタケ
の露地栽培をやったことがある。
今は杉が林立しているが、その頃、この辺
りは雑木が多かった。
主にナラやクヌギ、樫といった広葉樹で、敬
三はその中から若くていきいきしたクヌギを
いくつか選び、良さげな枝を伐採してはシイ
タケの菌を植え付けた。
梅林への帰り道である。
「ちゃんとじいちゃのま後ろをついて来る
んだぞ、はると。下手に並んで歩くと、小枝
にぴしゃりと顔をたたかれるでな」
「うん、わかった」
敬三は来た道とちがった道をあゆんでいる。
年老いて以来、火葬場へ行くことがひんぱ
んになり、その往復に使う道順をずいぶん気
にしている。
「おおっ、今でもシイタケの菌が残ってる
とは、な。こりゃ驚いたわい」
敬三は目をみはった。
うつむきざま、朽ちかかる寸前の原木の上
にかがみこんだ。
ひらいたシイタケを、ひとつふたつと右手
でむしりとった。
「こりゃうめえんだぞ。七輪の炭火で焼い
てな、そこにしょうゆをたらたら垂らすとな、
そんなこと言ってもお前にはわかるまいがな」
敬三は舌なめずりをした。
はるとはゆっくりと進んだ。
身に着けている長袖シャツのおなかあたり
がすいぶんとふくらんでいる。
はるとは時々、そのふくらみを右の手のひ
らでおおった。
たゆたい、茂みにひそむ蚊やぶゆたちから彼
の身を守っている。
敬三はあたりに用心しながら、雑草が生い
茂るけもの道を歩いた。
(イノシシが通ったあとに違いない、これ
は油断できないぞ。一刻も早く、はるとを見
つけ出さねば……)
突然、けもの道がとだえた。
長くのびたつる状の枝が互いに絡まりあい
けもの道をおおっている。
薄日を受けてきらりと輝いているものに気
づき、敬三は足をとめた。
野イチゴの実だった。
われ知らず、敬三が口もとをゆるめ、小さ
いが鋭いとげに気を付けながら、赤い宝石に
似た実を口にふくんだ。
(これだ、この味だ。久しぶりだな)
そう思い、ピョッと舌先で飛ばした。
互いにからみあったつるを、軍手をはめた
右手で、顔を傷つけないよう、道わきに押し
のける。
「あっ、はると」
敬三は大声をあげた。
はるとは身動きひとつしないで、一本の大
クヌギの根もとを見つめている。
樹液がとろとろと流れ出し、虫たちがそれ
に群がっているようだ。
「ほら、じいちゃんが迎えに来たぞ」
敬三はやさしく声をかけた。
大クヌギの根もとに生えた若草は、はると
の小さな靴で踏みしめられたらしい。
敬三の眼には、まるで病みおとろえた老木
が、それでもなお、乏しくなった生命力の源
を、森の生き物たちに与えようとしているよ
うに思われた。
(ご苦労さん、お前も、孫の行く末を案じ
るわしとおんなじ気持ちなんじゃな)
敬三の眼に涙がにじんだ。
はるとは、何も答えず、小枝をもった右手
で、老木の根もとの腐葉土を掘ったりさぐっ
たりしている。
「顔も手も虫に刺されて赤くなって、大丈
夫か、はると」
敬三は小さいしわがれ声になった。
はるとは立ち上がりざま、ぶっちょ面をし、
ふん、とわきを向いた。
クヌギの根もとをぐるりと掘り起こすつも
りだろう。右のズック靴の先を土の中に突っ
込んでいく。
「どうした、何か不服か?じいちゃんがわ
るいことしたか?」
「だってだって、じいちゃんが声かけたか
ら、のこぎりクワガタがどっかへ行っちゃっ
たんだもの」
はるとはクヌギの木の裏手にいる。
敬三からは見えにくい。
突然、はるとがあっと声をあげた。
「ど、どうした?ハチに刺されでもしたか。
変な虫いじるんじゃねえぞ。しっぽが二股に
わかれてる虫には絶対ふれるんじゃねえ」
「わかってるよ、じいちゃ。ちょっとこっ
ち来ないで。いま、いいとこなんだから」
しばらく、はるとが動きまわる物音だけが
敬三の耳にとどいた。
(さっきのクワガタでも見つけたんだろう。
あんまり、くどくいわねえほうがいいな)
「なんかあったら、じっちゃに言うんだぞ、
いいなっ」
「うん、わかってる。ちょっとだけ静かに
しててね」
蚊取り線香があたりにただよい、ほとんど
の虫がどこかに行ってしまった。
「虫よけの匂い、くさいね。ぼく、もうだ
いじょうぶだからね」
クヌギの裏手から出てきたはるとがにっこ
り笑った。
「おうおうよしよし、ほう、虫かごにけっ
こう入ってるな。こりゃ、お前の友だち連中
に自慢ができるってもんだ」
うん、とはるとは大きくうなずいた。
はるとが見つめていた木は樹齢およそ百年。
この森でいちばん年老いている。
四十年くらい前、敬三はこの森でシイタケ
の露地栽培をやったことがある。
今は杉が林立しているが、その頃、この辺
りは雑木が多かった。
主にナラやクヌギ、樫といった広葉樹で、敬
三はその中から若くていきいきしたクヌギを
いくつか選び、良さげな枝を伐採してはシイ
タケの菌を植え付けた。
梅林への帰り道である。
「ちゃんとじいちゃのま後ろをついて来る
んだぞ、はると。下手に並んで歩くと、小枝
にぴしゃりと顔をたたかれるでな」
「うん、わかった」
敬三は来た道とちがった道をあゆんでいる。
年老いて以来、火葬場へ行くことがひんぱ
んになり、その往復に使う道順をずいぶん気
にしている。
「おおっ、今でもシイタケの菌が残ってる
とは、な。こりゃ驚いたわい」
敬三は目をみはった。
うつむきざま、朽ちかかる寸前の原木の上
にかがみこんだ。
ひらいたシイタケを、ひとつふたつと右手
でむしりとった。
「こりゃうめえんだぞ。七輪の炭火で焼い
てな、そこにしょうゆをたらたら垂らすとな、
そんなこと言ってもお前にはわかるまいがな」
敬三は舌なめずりをした。
はるとはゆっくりと進んだ。
身に着けている長袖シャツのおなかあたり
がすいぶんとふくらんでいる。
はるとは時々、そのふくらみを右の手のひ
らでおおった。