雲上快晴

プーさん爺じが、何の変哲もない日々を綴る

横浜の夜

2006年10月10日 | 徒然
 鬼怒川川治から一夜明けて、横浜に直行したのです。
 新幹線を一本乗り遅れたために、ギリギリ1時に間に合いました。

 私、会社の採用が横浜だったので、勝手知ったる町と思って電車を降りたのですが、右に行っていいのか左なのか、まったく解らないのです。
 時代の移り変わりというか、世の中の変革のスピードと言うのは恐ろしいものがありますね。

 やっとのことで、「パシフィコ横浜」なるイベント会場に着いたのですけれど、これがデカイこと、私の行く所はここのどこなんだ、と歩き続けて一番端のイベント会場に辿り着いたのです。
 会場に入ると大型スクリーンが2台、集まった人達も1000人は超えている、音響も映画館を彷彿させるような地鳴りがするくらいの大音響です。
 昨日、宿泊した川治とは180度違う環境に、私の五臓六腑が悲鳴を上げているようでした。

 いざ、イベントが始まると、最先端の技術を駆使した趣向の数々、それはそれで感嘆したのですが、そこに集まっている若者達と昨日酒を酌み交わした人たちとのジェネレーションギャップがどうにも埋まらなくて。

 日本という国は、二層化に向かって邁進しているのですかね、もしそうであったなら、私は真っ先に昔に飛び込みます。
 だんだんと日本の常識が、私から離れていくようです。
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嬉しくなりました

2006年10月07日 | 卓球
 ホープスの強化練習日でした。もともとの予定は一泊二日でバタフライ道場に行くことになっていたのですが、講師の都合が付かなくなったのでキャンセルし、急遽地元の実業団の選手達にお願いをしたところ、快諾をもらって実現した今日の強化練習でした。

 6人の実業団選手がボランティアで駆けつけてくれました。
 午前中は、子供達を4人のリーグに分け試合をさせて、試合中にアドバイスをしてもらって、試合が終わってからは実技指導をしてもらい、午後からは実業団の選手も含めたフリーの申し込み試合、という形式を取ったのですけれど、張り付きでは疲れてしまうだろうから、「2台くらいに交代で付いてくれればいいよ」とリーダーの子に言うと「疲れたら休みますから、全員台に着きますよ」と言ってくれました。
 でも、実業団の選手と試合が出来る子供達は、当然のことながら彼ら彼女らに群がります、結果として、ほとんど張り付き状態の4時間となりました。

 実業団の選手は日本リーグの選手とは違い、平日は仕事に追われほとんど練習など出来ないそうです。土日のわずかな時間を作って練習しているだけなのですから、たとえ小学生相手とはいえ、1日卓球をやり続けることは、かなりきつかったはずなのですが、最後まできちんとした試合をしてくれました。
 自分達がホープス時代に受けた嬉しさの恩返しと思ってくれていたのでしょうか。

 練習が終わり、帰り際にリーダーの子が「またやります、いつでも言って下さい」と言ってくれました、私の心に何か爽やかな風が通り過ぎていきました。

 
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みんな元気ですね

2006年10月06日 | 徒然
 水曜日に、会社の外郭団体の全役員会議に出席したのです、会議は2時からだったので、午前中仕事をして11時30分くらいに車で出発、会議の場所は鬼怒川川治温泉、鬼怒川温泉から15分くらい奥に入った所にある鄙びた温泉なのです。
 会議が行われるホテルに入ると、ロビーのあちこちにやたらお年寄りが目立ちます、「湯治場として有名な温泉だからお年寄りがたくさん来ているのだな」と思いながら、時間がくるまでロビーでコーヒーを飲んでいました。

 会議の時間が近くなったので、案内されるまま会議室に一歩足を踏み入れ周りを見回した途端、体が固まってしまいました。
 お年寄りが多い会ということは事前に聞いてはいたのですが、いわゆる壮年と呼ばれる世代の方もいらっしゃるのだろうと考えていたのです。
 ところが、目の前に広がるパノラマは「蓮の池」、どうみても平均年齢が75歳を下回ることはないだろうと思えるものでした、当然のことながら、ロビーにいらっしゃった方全員が、この会議のメンバーだったのです。

 会議自体は、あいさつを含めて2時間強で終了し、5時半から意見交換会(宴会)となったわけです、宴会が始まるといきなり、80はゆうに過ぎたと思われるお爺さんが、足元をフラフラさせながらステージに上がり、多分、日本最長老の「マジックショー」が始まったのです。
 このマジックショー、なかなか思うように手先が動かないので、まどろっこしいのですけれど、思いもよらない結果が出てくる手品の数々に驚かされました。

 マジックショーが終わったと思ったら、次から次へとカラオケが始まりました、中には完全に「村田英雄」を意識した自前の着物で登場する94歳のご老人もおられ、また、白いあごひげにサングラス姿の95歳のご老人などもいらっしゃいました。
 それが皆さん、もの凄い声量で、「腹から声を出すというのはこういうことなんだな」と感服した次第です。
 歌うだけではなく、酒もガンガン飲みまくり、宴会の終了間際にはご飯を何倍もお代わりしていました。

 これで、今日のお勤めも終わったかと思いきや、「さあ二次会に行きますよ~」との司会者の弁、立場上行かないけにはいかない私、二次会の会場であるホテル内のスナックに行くと、宴会場では「私膝が悪くて座れないのです」と言っていたご婦人が、カラオケに合わせてダンスしまくらちよこ状態・・・

 恐るべき老人パワーに圧倒された一日となりました、私達の年代があの年になったときに、果たしてあんなに元気で居られるだろうか、何か根本的なところで軟弱になってしまっている自分を見せ付けられた貴重な体験となりました。

 翌日の横浜編は、またこの次に・・・バイナラ
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ああ男子クラスその2

2006年10月02日 | 回想録
 隔離病棟のような2年10組に入れられての憂鬱な新学期が始まった。
 しかも、担任は学校中の生徒全員にで嫌われていた「ブタヒラメ」と呼ばれていた先生。(たま~に、好きだという変人の外の変人もいたけれど)
 
 しかし、神は我々を見捨てなかった。

 教室の目の前にある旧講堂では、時々女子の体育の授業が行われていた、新体操のような、いわゆる創作ダンスというものだ。
 「目の保養」という言葉があるが、その当時の俺達(数人かもしれない)にとっては、目の保養だけでなく「心の保養」として荒んで傷ついた心を癒してくれたものだ。

 当然のことながら、「心ここに在らず」状態であるから、授業の内容など全く感心がないわけで、それに伴って成績は比例下降線を辿っていったのである。

 このシリーズは長いぜ・・・
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たぬきソバ

2006年10月01日 | 徒然
 15年くらい前になるでしょうか、深夜バスに乗って神戸に着き、立ち食いソバの店に入って、「たぬきソバ」と注文したのです。
 すると出てきたのは、油揚げが乗った「きつねソバ」だったのです。
 その時は、「店の主人が勘違いしたのだろうな、まあ、きつねでもいいか」と思って何の疑問も無く通り過ぎた時間だったのです。

 ところが、それから5年くらい経って、名古屋に行った時に、ひょんな話から神戸でのソバの話をしたら、「それは間違ったのではないですよ、正しいことです」と言われて???になってしまいました。

 よくよく話を聞いたら、関西では「たぬき」と言ったら「そぱ」で、「きつね」と言ったら「うどん」ということなのだそうです。
 だったら、関東で言う「たぬきそば」ばどうすれば頼めるのか、と聞いたら、「天カス」というのはタダなのだそうです。
 ですから、関東で言う「たぬきそば」を注文したかったなら、「かけそば」を頼んで自分で天カスを入れればいいということなのです。

 一体、JR東海道駅のどこで変わるのでしょうか、追求の旅をしたいと思っているのです。
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