雲上快晴

プーさん爺じが、何の変哲もない日々を綴る

木を植えました

2006年10月30日 | 徒然
 昨日、「秋グミ」と「ミカン」と「柊」の木を植えました。
 グミには思い入れがあって、小学生の頃、田んぼのあぜ道に生えていたグミの甘さの記憶が強烈に残っているのです。いつの間にか無くなってしまったグミの木、昨日植えたグミの木に実がなること、今一番の関心なのです。

 ミカンの木はついでに買ってしまいました、ゆずと金柑と蜜柑が揃えばいいかなぁなどと思って。

 柊は、つい最近、大先輩の方から言われて植えようと思ったのです。柊って50年経つと棘が消えるのだそうです、「お前ももうじき50になるのだから、そろそろ柊のように棘を消せ」と言われたのです。自戒を込めて植えました。

 「三丁目の夕日化」が着々と進行しています。
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昼間の子供は見られない

2006年10月29日 | 徒然
 幼稚園の卒園旅行に同行した塾生のお母さんからこんな話が聞けました。
 「今まで、幼稚園の先生やピアノの先生から、『あの子はリーダー的存在、仕切り屋ですよ』と言われていましたけれど私的には疑問だったのです。でも、一日他の子供達と一緒に過す我が子の姿を見て納得しました」と。

 そうなのです、親って以外に自分の子の日常の姿を知らないのですよ、子供は子供なりに賢いですから、家でどういうふうに親と接すればいいかということを知っているのです。子供なりの「保身」が働くのですよ。
 それは決して嘘の姿ではないのですけれど、それが子供の全ての姿ではないということも確かなことなのです。
 でも親は、家で接している子供の姿が全てだと勘違いしてしまうことが往々にしてあるので、それが原因となって人間関係の誤解に繋がることも間々あるのです。

 私のクラブでは、日曜日は朝から晩までの一日練習を常としていますが、一日子供達を見ていると、子供達のいろんな姿が見えてきます。
 ですから、ある意味では親より私のほうが知っている本当の子供の姿、というのもあるのです。
 自分の子を信じることは勿論大切なことですが、指導者の言うことも信じるに値するものなのです。

 まあ、塾の父兄の方は100%信じてくれているので最高の関係が出来ていますけれどね。
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半身

2006年10月26日 | 卓球
 ロータリークラブの例会では、会員が当番で「卓話」なる話を皆の前ですることが義務付けられている。
 今日の例会で私の番が回ってきたので、迷わず「ナンバ」と「骨体操」の話をしたのだが、高齢者の多いロータリークラブだからだろうか、予想外の反響に驚いてしまった。

 「卓話」が終わった後、自分なりに自分の話した内容を振り返っているうちに、はたと気付いたことがあった。
 ナンバは二軸の動きであり体を左右に割って使う、一方、欧米式の動きは一軸の動きであり体を上半身と下半身で輪切りにする使い方なのである。

 この違いがどういう結果を招くのか。

 例えば、右半身になって作業をすると体の左側は休息することができるのがナンバの動き、右半身が疲れたら左半身に入れ替えれば右側が休息できるである。
 ところが、一軸の動きでは上半身も下半身も休むという時間が取れない、何故なら腕と足の役割・機能が違うから、どちらかを休ませたら作業が出来なくなるからだ。

 当たり前のことかもしれないが、私にとっては大きな発見だった、二軸理論は半身理論とも言えるということが解ったのだ、何故かすごく楽しい。
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背広

2006年10月24日 | 徒然
 私はサラリーマンである、毎日背広にネクタイを締めて会社に出勤する生活を30年間続けてきた。
 そこで気にかけることは、毎日同じ背広に同じネクタイはしないということ、3,4着の背広を日々回しながらワイシャツとネクタイのコーディネートを変える、決して洒落ているわけではないが、着たきりスズメと思われたくないという意識が働いているのは確かだ。

 でもでもなのである、自分は意識的に背広やワイシャツやネクタイを変えているのだけれど、会社の上司・同僚・部下が、昨日、どんな背広・ワイシャツ・ネクタイ姿だったのかと思い出そうとしても、全然頭に浮かんでこない。
 彼らと会話した内容は覚えているのに、彼らのいでたちは全く思い浮かべることが出来ないのである。

 ということは、日ごろから、彼らの姿・形と接していることを重視しているのではなくて、彼らの人となりを重視して接しているということになるのだろう。

 であるなら、自分が意識していた背広・ワイシャツ・ネクタイを変えることなど、誰も注視などはしていないということ、それより、その時言った言葉、その時とった態度が相手には記憶としてして残るということなのだ。

 姿・形は記憶として残らないけれど、その人の思い・ポリシーは強く印象として残るということ、それが人間なのだろう、だから人間なのだろう、と少し思った今日なのである。
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とんでもない間違いを犯していました

2006年10月19日 | 卓球
 「ナンバのコーチング論」を読んで、今日、駅まで歩く道すがら「ナンバ歩き」をいろいろ試してみたのです。
 そして、あることに注意した歩きをしてみたら、それまでとは全く違う感覚に襲われ、「これだっ」と確信出来る歩きが見つかったのです。

 今までは、自分の体重(重心)を拾っていく歩きがナンバ歩きと考えていましたので、やや前傾に構えてつんのめるような歩き方をしていたのですが、これはナンバ歩きの進化過程の歩きであって、完成形ではなかったということが解りました。
 前傾姿勢をとるということは、足は前にでるものの、どうしても自分の体重を支えるために太ももに負荷が掛かります、どこか一箇所に負荷がかかるというのはナンバの基本的考え方から外れるものなのです。

 それがはっきりと解りました、要は、重心を拾うのではなく骨盤(臍下丹田)を押し出すということなのです、さらに足の動きは内側から円を書くように回していく、骨盤の幅に合わせて直線的に足を出したのでは、どうしても始点と終点が生まれてしまうのです、それを円運動にすることによって始点・終点という切れ目が無くなるということなのです。

 これを卓球に置き換えて見ると、今まで「倒れ込むことによって重心がボールに乗るのだ」と教えてきたことが間違いだということになるのです、倒れ込むということは力のベクトルが斜め下に働くということになるわけです、でもボールは前に飛ばすわけですから、後から前に水平にベクトルの矢印が書かれなければいけないわけです、ボール自体は斜め下に飛ばなければ相手コートには入りませんが、それはラケットの面の角度を調整すればいいことだったのです。

 具体的には、下ッ腹を突き出すようにして打つことが、一番ボールにエネルギーを与えられるということなのです。

 今まで、多くの指導者の方たちに間違ったことを教えてしまって、ホントに申し訳ありませんでした、是非修正してください。
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発見

2006年10月19日 | 卓球
 今まで子供達しか教えたことが無かったわけですが、たなかしさんという立派な中年に球出しをしている中で新たな発見がありました。

 たなかしさんは、人生は波乱万丈ですけれど、こと卓球に関して言えば無意識に安定を求めて両足をついてボールを打ちだがるのです。
 その結果として、腕の力でスイングしてしまうという欠点があったのです。この欠点を修正するために、「打つ瞬間は必ず右足を浮かせて(左打ちなので)」とアドバイスをしたら、振りが小さくなったのです。

 子供達は足を浮かせても大きな振りをする子もいます、きっと体重が軽いから不安定な状態でも大きく体を使うことが出来るのですね、でも、体重が増えれば増えるほど、不安定な状態(一本足)では大きな振りが出来なくなるということなのでしょう。

 このことをどうやって発展させるのか、面白い課題が見つかりました。
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今日までそして明日から

2006年10月17日 | 徒然
 わたしは今日まで生きてみました
 時にはだれかの力をかりて
 時にはだれかにしがみついて
 わたしは今日まで生きてみました
 そして今 わたしは思っています
 明日からもこうして生きて行くだろうと

 わたしは今日まで生きてみました
 時にはだれかをあざ笑って
 時にはだれかにおびやかされて
 わたしは今日まで生きてみました
 そして今 わたしは思っています
 明日からもこうして生きて行くだろうと

 わたしは今日まで生きてみました
 時にはだれかにうらぎられて
 時にはだれかと手をとりあって
 わたしは今日まで生きてみました
 そして今 わたしは思っています
 明日からもこうして生きて行くだろうと

 わたしにはわたしの生き方がある
 それはおそらく自分というものを
 知るところから始まるものでしょう

 けれど それにしたって
 どこで どう変ってしまうか
 そうです わからないまま生きてゆく
 明日からの そんなわたしです

 わたしは今日まで生きてみました
 わたしは今日まで生きてみました
 わたしは今日まで生きてみました
 そして今 わたしは思っています
 明日からもこうして生きて行くだろうと




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性善説

2006年10月16日 | 徒然
 私はずうっと性善説に立って人と接してきたつもりで生きてきました。
 そりゃ嫌いな人もいましたけれど、それでも根っからの悪人なんていない、というスタンスに立っていました。

 でも最近、多分価値観の多様化のせいもあるのでしょうけれど、いろいろな裏切りに直面して、結局は昔からの友人しか信用できなくなってしまいました、新たな出会いは、どこかに損得勘定が働いているのが当たり前で、100%頭から突っ込んでしまう私は馬鹿なのでしょうね。

 一真塾の合宿も本当に信用できる人しか呼ばないようにしようと思っています。

 正直、腸が煮えくり返った今日でした。
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星野君の二塁打

2006年10月12日 | 徒然
 小学校5年生の時の道徳の教科書の話です。

 小学生の野球の試合での話しなのです。
 主人公の星野君、その日は調子が良かったのですけれど、1,2打席とも結果が出なかったのです。
 試合は同点のまま最終回を迎えました、ノーアウトでランナーが一人出て星野君に打席が回ってきました、監督のサインは「送りバント」、でも星野君は打てるという確信にも似た自信に満ち溢れていました。
 そして相手ピッチャーが投じた第一球、星野君はフルスイングをしたのです、その打球は外野の間を抜けて二塁打となり、一塁走者が長駆ホームインしサヨナラ勝ちを収めたのです。

 ここで教科書は終わっていました、監督の指示は守らなかったけれど、守らなかったことで試合には勝った。

 私、子供ながらに難しい問題だなぁと思ったことを覚えています。

 こんな禅問答のような道徳の時間が昔はあったのですよね、今は道徳の時間てないそうです、これって、子供達の考える力を奪っていることじゃないですか、個性を消していることではないですか?

 だから俺がやるのだ、文句は言わせないよ。
 
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マジでマジなようです

2006年10月12日 | 卓球
 「変クラ」メンバーだった「たなかしさん」が、日曜に続いて練習にやってきました。
 小学6年の男子と年長さんの女の子に交じっての基本練習、一球一球ステップを確認しながらの真剣な練習です。
 子供達も、ついつい「たなかしさん」の真剣さにつられて、自分の番が来るまでシャドウを始めました。

 もうすぐ48才になる「たなかしさん」、「♪遅すぎることはない、早すぎる冬よりも・・♪」マジな「たなかしさん」に乾杯です。

 さらに、娘のピアノの師匠も塾生になる予定なのです、師匠も同い年、なんかすんごい塾になっていきそうです。
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