先日、仕事で上京する機会がありました。宿泊したビジネスホテルで親子連れが目立つので、何故かなと考えてみたら、「そうかそうか大学受験のシーズンなんだ」ということに気がつきました。
かく言う私も、かれこれ9年前でしたか、長男の大学受験に一度だけ同行した事を思い出しました。
その頃はまだ勤めていました会社の社員保養所が原宿にありましたから、格安で一泊できましたが、ビジネスホテルとはいえ、それなりの宿泊費用を伴いますから、地方から上京して何校も大学受験する学生さんとその親御さんは大変だなぁと、改めて思いました。
それにしても、最近の子どもは、おとなしいと言うのか、過保護に育っているのか、どうも“覇気”というものが感じられないように思えてなりませんが、そう感じるのは私だけでしょうか。
そうかといえば、方や靴の踵を踏み引きずって歩いている子もいれば、裾がボロボロのズボンのベルトを腰下までわざとずらして、見た目すごくだらしない格好をしている子を多く見かけます。そういう時、彼らを取り巻く生活環境はどんな様子なのだろうと、つい考えたりすることがありますが、いまや子ども達の様子も両極端の傾向が顕著です。
また、先日は三人の女子が屯しているところに出くわしましたが、標準語とはとても思えない、すごい言葉遣いで、しかも、周囲に配慮することなく大声で話していたり、或いは、別のグループは屋外であるにも拘らず、所かまわず食べ物をかじったりする姿を見かけました。
「この時間帯(夕方5時頃)にそんなものを食べていたら、家に帰って夕食がお腹に入らないだろうに、どうして」なのだろうと、私のような“お節介おじちゃん”は頭を傾げますし、いわゆる「コシパン」がトレンドだとは言われるものの、これも頭を傾げます。
私は、このような子ども達の状態を批判しようとしているわけではありません。評論家ではありませんから、子ども達の行状についてとやかく言えませんし、言うつもりもありません。それぞれが自分の意思であるからです。
が、ただ一つ言える事は、後述した子ども達の様子を見ていると、我々が育った頃と(と言えば大げさですが)、今とではどうも「美観」(びかん)に大きな違いがあるのかなぁということを感じる点です。
それはおそらく日本の教育が、子ども達の“豊な心”の形成のために、教えなければならないことを、必ずしもしっかりと教えてられていないことの反映に思えてなりません。
もし仮にそういうことだとすれば、子ども達の教育を単に学校のみに任せず(或いは押し付けず)家庭や地域の教育力でこれを如何にカバーするか、そういう仕組みをどのようにしてつくり出すか、これらを真剣に考えることだと思います。
私は、そういう研究や調べを改めて始めたいと思っています。
かく言う私も、かれこれ9年前でしたか、長男の大学受験に一度だけ同行した事を思い出しました。
その頃はまだ勤めていました会社の社員保養所が原宿にありましたから、格安で一泊できましたが、ビジネスホテルとはいえ、それなりの宿泊費用を伴いますから、地方から上京して何校も大学受験する学生さんとその親御さんは大変だなぁと、改めて思いました。
それにしても、最近の子どもは、おとなしいと言うのか、過保護に育っているのか、どうも“覇気”というものが感じられないように思えてなりませんが、そう感じるのは私だけでしょうか。
そうかといえば、方や靴の踵を踏み引きずって歩いている子もいれば、裾がボロボロのズボンのベルトを腰下までわざとずらして、見た目すごくだらしない格好をしている子を多く見かけます。そういう時、彼らを取り巻く生活環境はどんな様子なのだろうと、つい考えたりすることがありますが、いまや子ども達の様子も両極端の傾向が顕著です。
また、先日は三人の女子が屯しているところに出くわしましたが、標準語とはとても思えない、すごい言葉遣いで、しかも、周囲に配慮することなく大声で話していたり、或いは、別のグループは屋外であるにも拘らず、所かまわず食べ物をかじったりする姿を見かけました。
「この時間帯(夕方5時頃)にそんなものを食べていたら、家に帰って夕食がお腹に入らないだろうに、どうして」なのだろうと、私のような“お節介おじちゃん”は頭を傾げますし、いわゆる「コシパン」がトレンドだとは言われるものの、これも頭を傾げます。
私は、このような子ども達の状態を批判しようとしているわけではありません。評論家ではありませんから、子ども達の行状についてとやかく言えませんし、言うつもりもありません。それぞれが自分の意思であるからです。
が、ただ一つ言える事は、後述した子ども達の様子を見ていると、我々が育った頃と(と言えば大げさですが)、今とではどうも「美観」(びかん)に大きな違いがあるのかなぁということを感じる点です。
それはおそらく日本の教育が、子ども達の“豊な心”の形成のために、教えなければならないことを、必ずしもしっかりと教えてられていないことの反映に思えてなりません。
もし仮にそういうことだとすれば、子ども達の教育を単に学校のみに任せず(或いは押し付けず)家庭や地域の教育力でこれを如何にカバーするか、そういう仕組みをどのようにしてつくり出すか、これらを真剣に考えることだと思います。
私は、そういう研究や調べを改めて始めたいと思っています。