田口ランディのブログで
罪と罰とケアという話が出ていた。
・日本では更正システムが整っていないこと
・水俣病の大阪原告団の勝訴は、時代が変わっていることを示している
・システムの犯罪で、加害者の顔が見えてこない
・水俣病患者の方が「自分のなかにチッソがある」と語り始めた
三菱自動車の欠陥隠しも同様のことと思う。
経営トップに責任があるとされたわけだが、では、なぜ彼らはそのような判断をしたのか。
会社の雰囲気、システムから来ているような気がする。
そしてそれを辿ると、過激なまでの競争の副作用だと思うのだ。
モノ作りの復興が叫ばれて久しいが、モノ作りの現場では、三菱・チッソは他人事ではない。
ほんのちょっと、大切なものを見誤ると、どこにでも起こることなのだ。
現場は徹夜続きで休みなし。それだけ働いても、競争は厳しくなるばかり。
海外では安い賃金と沢山の人材で、怒涛の様に競争を加速させる。
そうすると、「まぁ、これで行こう」と言ってしまいたくなるのだ。
それが「自分のなかにもチッソがある」ということだろう。
三菱やチッソを責めるのはたやすい。
だが、責めて責任を追及しても、同様のことが起こる。
罰を与えたところで、現場の良心を頼みにしている構造は変わらない。
消費する側に変化が必要だ。
安さや利便性を過剰に求めないで、安心のために、これまでより高くなっても購入する決意が消費者にあれば、現場は変わる。変わらざるをえなくなる。
自分が変化の痛みを受け入れないで、相手にのみ変わることを要求しても、無理ではないか。
「家裁の人」というマンガがある。裁判官が主人公で、少年事件を扱う。
その話の一つに、新任判事が窃盗の少年の処遇で悩むという話がある。
「凶悪なら重く、罪が浅ければ軽く、というのが世間の常識ですからね。」
「それを忘れたらどうです?」
「厳しい罰を与えれば、問題のある少年が自分達の前から消えると思うこと自体、完全な誤解です。」
「どんなに長い処分を与えても、少年は社会に戻ってくるんです。誰かの隣に住むんですよ。」
「その時……その少年が、笑って暮らしている可能性を探すのが、裁判官の仕事じゃないんですか。」
罰とは、その罪を許すためにあるのではないか。
このエントリの最初に示したコラムだが、以前は「被害者を放っておいて、加害者のケアなんて…」というトラックバックがあったはずだが、いま(4月24日)見るとなくなっている。
被害者の保護と保障が行き届いていないというのも事実だろう。自分や家族が被害者となったら、加害者のケアなど腹立たしく感じるだろう。
だが、それでも、加害者のケアも必要だと思う。被害者と加害者のどちらが優先されるべきという話ではなく、どちらも大切だ。
加害者のケアが足りなければ、再犯につながるだろう。犯罪にまで行かなくても息苦しい社会になる。その息苦しさは次の被害者を生むだろう。