
今日は、少し早いのですが、お盆のお墓参りに行ってきました。
明日は台風が来るかもしれないということと、家内の実家にもいかなければならないということもありました。
毎年、お盆にはお寺さんが家に来られて、仏壇にお経を唱えてくださいますが、今年はコロナ禍もあって、ご遠慮させて頂くことになりました。
高齢の家庭が多くて、そういったケースが非常に多いと、住職さんはおっしゃっていました。
さて、お墓のあるお寺なのですが、この場所には昔から石碑が建っています。
昔は、その意味が分からなかったのですが、歳を重ねるにつれて、やっとわかるようになりました。
その石碑には、史跡として・・・「淀古城址」という文字と、「戊辰役砲弾貫通跡」という文字が書かれています。
下の方を読んでみると・・・
一つ目は「此処は戦国時代初細川管領家が築城し・・・淀君らの居城となった淀古城の址である」というものです。
もう一つは「慶應四年正月四日戊辰役の際東軍砲弾が飛来し本堂を貫通したその弾痕がある」という文字が書かれています。
これを知ったときは、すごい発見だとびっくりしました。
テレビの歴史ものでよくやっている淀君が昔このあたりに住んでいたのかということは驚きでした。
今も淀城跡という場所が残っているのですが、今のものは秀吉のころのお城址ではなくて、徳川の時代につくられたお城の址だと思われます。
調べてみると、淀古城については、史跡らしきものはあまり残っておらず、わからないことが多いということです。
謎の多い淀城ですが、この場所に石碑があるのは何か理由があるはずです。。。
今はその謎を知る人は誰もいないのかもしれませんが・・・。
このお寺は江戸時代になってから、作られたとのことです。
さて、もう一つの石碑の文字は、戊辰戦争の際に、東軍の砲弾が飛んできて、本堂の壁を貫通した跡があるというものです。
今でも、その貫通跡は残っていて、以前本堂に入ったときに、見せていただきました。
何年か前に調べたことがあるのですが、「鳥羽伏見の戦い」が激化し、旧幕府軍は劣勢を強いられて、敗走をしたとされています。
その時に、このあたりを逃げながら通りかかったのではないかと思われます。
東軍というのは、おそらく旧幕府軍のことだと思われます。
その大砲の弾が飛んできたということらしいです。
昔の大砲ですので、爆発せずに穴が開いて壁は無事だったようです。
境内にもう一つ石碑があって、「戊辰役東軍戦死者之碑」というものが建っています。
裏側には榎本武揚という名前が書かれています。
榎本武揚という方は、旧幕府軍でありながら、生き残って明治政府の役職にも就いたそうですが、どんな思いでその後の人生を過ごされたのでしょうね。
少し興味があります。。。
榎本さんの名前が書かれているけれども、本人が来られたわけではないようだと、前の住職さんに聞きました。
亡くなられた住職さんは、歴史について詳しい方でしたので、もっといろいろと聞いてみたかったです。
お盆のお墓参りをしながら、150年前・・・400年前のことを想像してしまいました。
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