「夜明け前」の一節に、「芋焼餅謎を冬の朝の代用食とした」とある。
代用食という言葉はすでに死語となっているのではなかろうか。
主食が米という概念も崩れかかっているのかもしれない。
代用食とは戦中戦後の食糧事情の悪い時にできた造語かと思っていた。昭和11年に初版本が出た「夜明け前」に出てきているということは、米のとれないところや貧しいところでは日常的に使われていたのかもしれない。
戦争末期から戦後に子ども時代を過ごした私としては懐かしい言葉でもある。
錦町あたりは食糧事情が悪いと言っても野草を食べたり大豆の搾りかす、ふすまを食べたというようなことはなかった。
米の代わりに小麦粉を使ったことは覚えている。
うどんは製麺機で作っていた。原理は今市販されているものと同じである。
粉は地粉と言い、地元でとれたものである。
今でも、東大和や武蔵村山、東村山には地粉を使ったうどんやがある。讃岐や関西のうどんと比べ、旨みがあり、懐かしい味である。
面白いのは、当時、我が家にパン焼き機らしきものもあったのである。木の四角い箱の底にニクロム線を張り巡らし、中にパンの生地を入れ、パンを焼いていた。
残念ながらその味は思い出せない。不味くもなく美味しくもなかったのかもしれない。
すいとんはご飯のおかずのようにして食べた。
砂糖が手に入るようになり、フライパンで小麦粉を溶いたものを焼き、砂糖醤油を付けて食べた記憶があるが戦後も落ち着きを取り戻した頃だと思う。
甘いものは欠乏していたのは確かである。
糖分の供給源はさつまイモである。
今、市場に出回っているものからすれば、はるかに品質の落ちるものである。
色も白がほとんどで、太白という品種は今でも覚えている。
農林何号とか言うものは、形だけは大きいが、食べられた代物ではない。
さつまイモを乾燥させて、粉にしてゆでた「さつま団子」はおやつとしてよく食べた。その甘さに空腹を満足させた。
以前、川越に行った折、さつまイモの粉を買ってきて、さつま団子を作ってみたが、食べれたものではなかった。
中学校の女性の先生でさつま団子というあだ名の先生がいた。色が黒く身長が低かったのでその名がついたのであろう。
中学の頃は、すでにさつま団子は食べてはいなかったが、その名は記憶に残っていたのであろう。