---蒲公英は星座の如く野に灯り 遺跡の石は夢路の標---
前回に続いて春の野に遊んでいる。
我が家の周りは全て鎌倉時代の遺跡で、探神院の地下にも永福寺の僧坊の遺構が埋まっている。
建前だけでも幕営の鬼門守護職なので、遺跡の上に住んでいても何ら不思議ではない。
花に埋もれてその辺に転がっている石も、礎石や石組の一部である。
そんな場所には古い茶器を持ち出して、野点でも楽しむのが良い。
一服しながらぼーっとしていれば蝶も飛んで来て、今昔不易の春の息吹が身にしみる。
(古唐津小福茶碗 桃山時代)
---考える事を止めれば蝶の来る---
無骨な桃山時代の茶碗と蝶は好対象の取り合わせだと思う。
これで気分は婆娑羅大名だ。
戦乱に明け暮れた武将達には、平和な春の野は天上楽土に思えただろう。
現代の一般人が見るより遥かに美しく感じていたはずだ。
野の花は絵にも句歌を詠むにも、花屋で買って来た花より気持ちが込めやすい。
のどかな春の一日にスケッチや詩作に没入している時が、私にとって一年で最も幸福感がある。
この至福の時間の為に画技詩文をやって来たと言っても良い程だ。
作品の催促も締切も無ければ、正に我が世の春。
こうして隠者の夢の一日が暮れる。
完全に日が落ちて星辰が座に着く頃には、カフェで一休みしながら今日の収穫を見直している。
ここで句歌も一つ位は仕上げたい。
---野に花の満ちては失せて行く春の かなめ要に廃墟の礎石---
(野に、がカフェで仕上げた部分)
旧作だが小さなスケッチも一枚。
絵は版権の都合で新作を出しにくい。
(野牡丹 色鉛筆画)
仲春の桜から晩春の牡丹までの時期、雨風も多く真の好日は以外と少ない。
その中で普通の人が春を満喫できる日は、一生で合計百日も無いだろう。
隠者の脳内は一生常春だが、皆はどう過ごしているだろうか。
©️甲士三郎
前回に続いて春の野に遊んでいる。
我が家の周りは全て鎌倉時代の遺跡で、探神院の地下にも永福寺の僧坊の遺構が埋まっている。
建前だけでも幕営の鬼門守護職なので、遺跡の上に住んでいても何ら不思議ではない。
花に埋もれてその辺に転がっている石も、礎石や石組の一部である。
そんな場所には古い茶器を持ち出して、野点でも楽しむのが良い。
一服しながらぼーっとしていれば蝶も飛んで来て、今昔不易の春の息吹が身にしみる。
(古唐津小福茶碗 桃山時代)
---考える事を止めれば蝶の来る---
無骨な桃山時代の茶碗と蝶は好対象の取り合わせだと思う。
これで気分は婆娑羅大名だ。
戦乱に明け暮れた武将達には、平和な春の野は天上楽土に思えただろう。
現代の一般人が見るより遥かに美しく感じていたはずだ。
野の花は絵にも句歌を詠むにも、花屋で買って来た花より気持ちが込めやすい。
のどかな春の一日にスケッチや詩作に没入している時が、私にとって一年で最も幸福感がある。
この至福の時間の為に画技詩文をやって来たと言っても良い程だ。
作品の催促も締切も無ければ、正に我が世の春。
こうして隠者の夢の一日が暮れる。
完全に日が落ちて星辰が座に着く頃には、カフェで一休みしながら今日の収穫を見直している。
ここで句歌も一つ位は仕上げたい。
---野に花の満ちては失せて行く春の かなめ要に廃墟の礎石---
(野に、がカフェで仕上げた部分)
旧作だが小さなスケッチも一枚。
絵は版権の都合で新作を出しにくい。
(野牡丹 色鉛筆画)
仲春の桜から晩春の牡丹までの時期、雨風も多く真の好日は以外と少ない。
その中で普通の人が春を満喫できる日は、一生で合計百日も無いだろう。
隠者の脳内は一生常春だが、皆はどう過ごしているだろうか。
©️甲士三郎