現代ではクリスマスや年末年始に紛れて節季の冬至は全く注目されないが、冬至の祭りは世界中で古代から行われて来た農耕文明の最重要祭祀の一つだ。
そもそもクリスマス自体もキリスト教以前からあった各地の太陽神復活の祭りと混ざって定着して来た歴史がある。
隠者の正月の旧暦立春まではまだだいぶ間があるこの時期は、我家だけの冬至祭りをじっくり楽しむ事にしている。
(大日如来図 室町時代 古信楽壺 室町時代 李朝燭台)
冬至の祭壇では太陽神(密教では大日如来)に鬼柚子南瓜等を供え、家人はささやかなご馳走でその復活をお祀りする。
その後の柚子風呂は今も多くの家庭でやっているのと同じだ。
和洋折衷で多神教自然信仰の我家ではソル(ギリシャではヘリオス)のイコノグラムも別に祀っている(前出)。
キリスト教徒でも無い者がクリスマスを祝うよりは、身近な自然神の冬至祭りの方がずっと良いと思う。
生前の祖母が毎朝お天道様を拝んでいたのは古き良き時代の思い出だ。
世間が暮正月でも我家は何もせず、ひたすら幽陰の冬を読書三昧だ。
(玄冬 初版 吉井勇 古越前壺 江戸時代 ジョニーウッド ティーポット)
「うつくしきものを戀しむこころもて 宗達在りし世をば思はむ」吉井勇。
「玄冬」は吉井勇が戦時中洛北に隠棲していた頃の歌集で、この歌は京都の古美術を詠んだ連作の内の一首。
彼の晩年の歌集は閑寂の趣き深く、冬籠りに読むにはお薦めの本だ。
彼自身がその蔵書中特にお気に入りだったのは、言語道断にも芭蕉の「猿蓑」元禄版だそうだ。
2〜3週間ほど前に我が幽居の脇を流れる川岸の竹林で蛾眉鳥の声を聴いたのが今年最後の歌だったようで、この後は春まで鳴くことはない。
ーーー蛾眉鳥の四季の最後の歌密か 冬も緑の竹林深くーーー
冬の画題では昔から竹林に雀が数多く描かれているが、我が谷戸は瑞鳥である蛾眉鳥がその美声で浄域を守護していて、12月初めの小春日まではごく短かな歌声が聴ける。
夏の長鳴きの凝ったメロディーとは全く違う節回しで、四季の名残りを告げているような声だ。
太陽神の復活と共にまた来春の歌声を楽しみに待とう。
現代の都会生活者はすっかり四季自然の聖性から遠ざかってしまったが、せめて諸賢は暮しの端にでも伝統行事を取り入れ気候風土に即した歳月をしみじみと味わって頂きたい。
©️甲士三郎