ーーー古き絵に桃の節句の灯が赤くーーー
文人画では春の蘭、夏の竹、秋の菊、冬の寒梅を四君子と呼んで尊んだ。
それぞれの描き方も確立されていて、その筆法は後世の水墨画の基本となっている。
私も一通りは描けるがかなり精神主義的な画題なので、今の一般大衆向けには全く需要は無いだろう。
自分ではあまり描かないものの四君子の古画を観るのは好きで、毎年中春頃に掛ける軸で隠者のお気に入りはこの茫洋とした池大雅の蘭だ。
(春蘭図 池大雅 江戸時代)
江戸時代の池大雅から田能村竹田の頃が我が国の文人画の最盛期だった。
当時のほとんどの画家が墨蘭を描いていて一見みな同じように見えるが、大雅のバランス感覚の良さは頭抜けている。
また片暈しを使った墨の濃淡も気が利いていて、花や葉の瑞々しい生命感が漲っている。
胸中にまで春風が通っているような筆の遅速強弱の加減が見事だ。
ただ表具を直す時にだいぶ傷みがあったのか、画の下部が少し切り詰められているのが残念。
BGMは意外な事にストラビンスキーの「春の祭典」が似合う。
東洋の春蘭と西洋の春の妖精のイメージが相通じるのだろう。
こちらは以前にも紹介した貫名菘翁の、また別の蘭画賛一幅。
(蘭石画賛 貫名菘翁 江戸時代 京唐津茶碗 黄瀬戸向付 江戸時代)
大雅よりきちっとしていて、儒学者らしい真面目な画風だ。
大地の気を表す奇石に蘭を合わせる構図も多くの文人画家に好まれた。
現代では大規模な蘭展も開かれ世界中の絢爛たる品種が並ぶ中、昔ながらの清楚な君子蘭の愛好家は減ってしまい、幽香と謳われたこの蘭は古詩や画の中でだけ今も香気を放っている。
文人達が君子蘭に引き寄せられたのはただの美しさでは無く、地味ながら気品に満ちた清雅な花のありようだろう。
彼等にとっては現実界の華麗な花より、己が夢幻界に咲く墨一色の幽花こそが至高だったのだ。
さて今週は新暦では五節句の上巳(桃の節句)なのだが、温暖な鎌倉でも自然界の桃が咲くには到底早過ぎる。
(古越前壺 江戸時代 黄瀬戸茶碗 江戸時代 鎌倉彫菓子皿 大正時代)
花屋で売っていたハウス栽培の桃が、寒さで店頭では咲かず安売りになっていた。
暖房の部屋に入れ加湿器も目一杯使って、ここ数日の暖かさで節句には咲いてくれるだろう。
取り敢えず咲きかけの桃に菜の花を添え春色の菓子も加えて誤魔化そう。
古来からの季節の行事まで新暦令でひと月以上も早めてしまった薩長官僚の愚かさを、幕府の直参旗本だった我家としては五節句が来るたびに罵るのだ。
これから仲春を迎え花や鳥の愛好家は野に山に心躍る季節だ。
私も旅には出られぬものの、鎌倉は身近な自然でも十分楽しめるのがありがたい。
©️甲士三郎