日向ぼっこ残日録

移り気そのままの「残日録」

人に愛されるとは?

2006年06月07日 14時09分33秒 | 気まま日記
松岡青羅を加古川市の「光念寺」に訪ねました。寺の奥さんに挨拶し、境内に入り写真を撮る了解を得ました。
【JR加古川駅より徒歩10分の中心部にあります。自動車の場合、駅近くに2時間まで無料の「ニッケパークタウン」があります。】
青羅は前橋藩(15万石)酒井忠恭(ただすみ)(後、移封して姫路城主(15万石)。松平朝矩と入れ替わり)の江戸藩邸に生まれました。竹沢氏の養子となり御勘定方(幹部級)として出仕するが、不身持の理由で姫路藩(行ったことがないが、国許)に移されました。サラリーマンとして、本社から姫路工場(禄米生産地)に転勤です。その姫路でも、精勤さを欠く勤務ぶりで、武士を辞めさせられます。(反省せよと、無給の身に)そこで、出家して、以前よりたしなんでいた「俳諧」を求めて、諸国吟遊の旅に出ます。青羅は明和年間(28歳ころ)加古川にやってきます。当時の大庄屋「中谷慶太郎」の厚い庇護を受け、三眺庵(栗本庵)を与えられます。そして、俳諧師として活躍します。青羅は以後「栗の本」を名乗るようになりました。(栗の本青羅(くりのもとせいら))青羅は、「釣りバカ」の「浜崎(ハマチャン)」以上に怠惰な性格です。しかし、趣味の俳諧が、後の人生を大転換させます。
青羅はたぴたび句会を催し、句集を発行し、芭蕉の句碑を建立し、俳諧師として盛んな活動をします。栗の本社(くりのもとしゃ)からは、多くの俳人が生まれました。一時は、3000人も弟子がいました。加古川の「光念寺」には、句碑があります。姫路には、姫路市立城内図書館に「青羅発句集」が蔵書されています。加古川には「青羅顕彰会」があり、境内に立派な「顕彰碑」が建てられています。
2度も勤めをしくじった「青羅」が、尊敬を集める存在になるのは不思議な気もします。
境内の写真や句碑(辞世の句)を撮りましたので、「姫路城の秘密Ⅱ」に追加する予定です。