*「黒川復興ガーデンとバイオアート ー英彦山修験道と禅に習うー」のプロジェクトの経緯をお話し致します。
北部九州豪雨災害復興支援でお世話になっている
九州大学ソーシャルアートラボさんの
知足美加子先生主導のもとで
………北部九州豪雨災害復興支援「黒川復興ガーデンとバイオアート ー英彦山修験道と禅に習うー」として………
この東屋 「泰庵」と復興ガーデンが生まれました。
新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、
「東屋セルフビルドと植栽によるアートガーデン制作」は一般参加者のイベントとしては中止となりましたが、
関係者の打ち合わせと作業を兼ねて九州大学ソーシャルアートラボの知足先生を筆頭に大学関係者の有志の皆様、
鹿児島、宮崎、長崎、朝倉などの優れた匠の技術者有志の皆様、自己責任を持って参加された皆様のおかげをもちまして、奇跡に近いほどの短期間で本当に立派な東屋と庭がこの地に誕生致しました事をご報告致します。
この黒川は英彦山の座主の黒川院(約300年間)に付属する多くの社寺や家臣の屋敷が作られており、
「岩屋権現社」上宮、下宮から西に開けた谷筋、馬場、北小路地区には黒川院の本体が置かれ、
共星の里(旧黒川小学校明治7年開校→平成7年に閉校。共星の里は平成12年に開館し現在に至る)は、
いにしえをたどれば、第9代の座主のお住まいがあったところで、
今回の黒川復興ガーデンになる旧運動場あたりは寺屋敷(職正覚寺)があり、
共星の里からすぐ上の第一代座主のお墓がある天神の森辺りは
北部九州豪雨災害の後、発掘がなされ、なんと縄文時代後期のものが出土し
早くから中国や朝鮮とも交易をし、献上された品々も出土されており、
この黒川の山間地に縄文時代、人の営みがあったとは…。
場のエネルギーとも言うべき聖地の持つ重層性を感じております。
まずは、土地神様にご挨拶。
第9代のお墓に祀ってある榊を頂き、
酒と塩と米を上げて、何事も事故やケガがなく東屋と植栽が無事に完成することを願って
ご祈祷をさせて頂き、作業に入りました。
※
完成まで所要時間は2日間。
この2日間で形になるものか…。不安がありましたが、
事故やケガもなく、晴天に恵まれ、
朝早くから、遅くまで作業をして頂き、
みなさまの真心をいただき、
あの災害の時とは打って変わって
ここに「再生と循環のシンボル」ともいうべき場が誕生致しました。
本当に皆さん一心不乱に熱中して、
終わってみれば、これが2日間で出来たとは信じられないほどでした。
こんなにも美しいものかという言葉が一番だと言えるほどの東屋、杉の美しさ、叩き土の感触、石の並び。
メモリアルブランコの再生。
彩り鮮やかな植栽の輝き。
皆様のおかげをもちまして
※
※
※
日本の匠の技がここに結集し、素晴らしい東屋と植栽が出現できたことは本当に感無量でございます。
ご厚意に深く御礼申し上げます。
また、あの災害からいろいろな方々がこの黒川、共星の里の復興に関わって頂きました。
その方々のおかげも頂き、今があり、また今回の参加頂いた方々の御一人、
おひとりのご尽力のたまものだと深く々感謝申し上げます。
※
…………………………
災害時、多くの土砂や流木とともに、様々な思いが流れていった筑後川の河口付近の海水を汲んできて、
最後にお祓いをいたしました。
天と山と水と人の心が今一度幸せに結び合うことを、皆で祈ったところです。(文 知足先生)
…………………………
(長野聡史;※印 写真撮影)
………
知足先生が詳しくプロジェクトサイトにて公開されてますのでご覧ください。
こちらをご覧ください。
この東屋「泰庵」と復興ガーデンを作るようになったか⁉
北部九州豪雨災害でこの朝倉、黒川はとてつもない被害に遭い。共星の里も例外ではなく、
あの災害が起きた7月5日から5日後から仲間や友人、そして全国から駆け付けて下さったボランティアの方々と幾度となく毎日土砂を取り除く作業をしていた。
7月26日の夕方に一台の車が共星の里についた。
私たちはここをアートで復興ガーデンにしたいという想いを知足先生と杉岡さんたちに話しお二人とその想いを共有し、
そこからがこのプロジェクトの始まりだったと感じております。
お二人に深く感謝申し上げます。
杉岡さんのHPをご覧ください。
こちら
【泰庵の柱】杉岡さんHP
【泰庵の屋根】
そしてセルフビルドされた
東屋は「泰庵」と名前が誕生致しました。
以上のような経緯を経てます。
泰庵の銘板について、英彦山の杉材を使うことを杉岡さんが希望され、
なんと、
2016年の「英彦山神宮奉幣殿再建400年記念事業」の際、
知足先生が不動明王を復元制作するために、
神宮から分けていただいた英彦山千本杉の余材で作られることが決まりました。
私たちはその千本杉の杉板のを目にしたとき、
この杉の目の細やかさ、年輪がこんなにも人の心を打つものか、
英彦山の山の叡智そのものがここに…。
あの厳しい自然を生き抜いてきた証そのものが、
今この災害から復興を願う心のよりどころとして誕生し、
また、英彦山の歴代座主が住んでいらしたこの黒川に
まして第9代の座主のお住まいだった場所へと。
深いにしえを感じております。
今回この銘板の「泰庵」は
写真家であり書家の四宮佑次氏が揮毫されました。
いつになく、真剣そのもの
素晴らしい「泰庵」が誕生いたしました。
四宮さん本当にお心を頂きありがとうございます!
4月26日に毎年英彦山神宮より宮司さまをお迎えして
歴代座主の慰霊祭が黒川で開催されております。
前回もその
慰霊祭のことを掲載させていただきましたが
その慰霊祭の後に、高千穂宮司さまと吉門禰宜さまがこの「泰庵」にお越しくださいました。
英彦山の千本杉とは…。宮司さまにも英彦山の千本杉の特徴をお聞きし一層、
深く知りたくなって知足先生にお尋ね致しました。
………泰庵の銘板について、英彦山の杉材を使うことになりました。
2016年の「英彦山神宮奉幣殿再建400年記念事業」の際、私が不動明王を復原制作するために、神宮から分けていただいた英彦山千本杉の余材でした。
その経緯について尾藤さんより説明を依頼されたので、以下にに添付いたします。
ーーー
平安時代より続く英彦山修験道の歴史は、神仏習合のもと、修験者による自然崇敬が核となっていました。そのひとつに「水」への信仰があり、水を支える森、特に杉を大切にしてきました。山内には樹齢1200年の「鬼杉」があります。
山伏たちによる「擬死再生(新しい命を山から授かる)」の修行の一環として杉を植樹したものが、「英彦山千本杉」として残っています。
中腹より上の結界(実報荘厳土)にある千本杉は、在来種としては数少ない杉種(ホンスギ)といわれています。
英彦山の杉は、明治期の修験道禁止令の後、その希少性から乱伐の憂き目にあいました。修験道は禁止され、多くの山伏たちは山を降りざるをえなかったのです。
しかしながら、現在は英彦山神宮を中心に復興がすすみ、英彦山の尊さが再認識されつつあります。それは、山を離れるか否かに関わらず(私も含む山伏の子孫たちも)、英彦山への思いと信仰、愛を共有する人々が存在し続けたからです。
それは、今回の豪雨災害(2017年)によって生活の根拠を絶たれ、愛する黒川地区を憂う被災者の方々にも共通する心情なのではないかと、私は考えます。
この銘板は、平成3年の台風で倒木した英彦山千本杉です。「英彦山神宮奉幣殿再建400年記念」の際、鎌倉期の木彫(不動明王立像)を復原した余材です(
→報告ページ)。英彦山神宮の方々が、背中に背負って運んでくださったというとても貴重な杉材です。
黒川は、室町時代から英彦山座主の黒川院があり、英彦山と縁が深い場所です。私は2年前より復興を願い、共星の里と協力して命息づく庭を作る活動を行なってまいりました。今年、杉岡世邦さん(杉岡製材所)、池上一則さん(大工池上算規)が中心となって、この庭に美しい東家「泰庵」がセルフビルドされました。泰庵は、災害被災木が再活用されています。杉岡さんの希望があり、銘板にこの英彦山千本杉を使うことになりました。
私は、英彦山再興の歴史そのものが、今現在、進むべき道を模索する被災地の皆さんをエンパワーメントすると信じます。皆様の末永いご多幸をお祈りします。
知足美加子」
…………………………
山があり川が流れ、草木の自然の中に神と仏。
眼に見えない聖なるものを感じ見出だしてきた日本人のこころ。
人びとは自然とのかかわりを通して暮らしを営み続け、地域が生まれ文化を育ててきた。
山や森、自然のうちにある神仏の聖地霊場は日本人の「こころの故郷」と言うべきであり
誰でもここに帰って来れるこころのよりどころでありたい。
私たちは自然と共に安らかに、今からも星のように輝き、互いを認め合い、ともに生きることを願う。
人と自然とアートの融合を求めて。
(共星の里一同)