レフティやすおの新しい生活を始めよう!

50歳からが人生の第二段階、中年の始まりです。より良き老後のために良き習慣を身に付けて新しい生活を始めましょう。

最初の衝撃!【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】第5回

2012-12-26 | 左利き
【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】第5回

第4回2012.11.22 左利きの意識とハサミの話
では、小学校低学年時代だろう?ハサミの思い出を中心にお話しました。

今回は、いよいよ私にとっても最も大きな影響を与えた事件について書いてみましょう。

 ●「ぎっちょ/左ぎっちょ」と「差別」

すでに書いたことですが、小学校入学時(1960(昭和35)年)に親は先生に「左利きだがどうしたらよいか」と相談した、といいます。
担任の先生は「何も問題はない、そのままでいい」という答えだったようです。
その後、親からも先生からも特に何か指導を受けたという記憶もなく、利き手の変換(かつて右手使いが正しいという意味から「矯正」と呼ばれた指導/私はこれを間違った表現、誤った用法であると考えています。/詳細は2012.6.11 第1回参照)等の指導に関して言えば、誰からも何も言われることはありませんでした。
そういう意味では(少なくとも私のまわりでは1960年代は)良い時代に入っていた、といえるでしょう。

しかし何事にも始まりがあるように、物心つくとともに、私にとっての左利きに関する精神的な“苦闘”が始まりました。
そして、いつの時代にも物事の本質が理解できない人がいるもので、そういう人々との“戦い”が始まるのでした。

「少年時代その1(左利きマイヒストリー・エッセイ)」「最初の衝撃!」より
左利きの「矯正」(右手を使うように指導することを当時はこう呼んでいた)に関しては、家の中、学校のクラスでは特に精神的問題を感じることなくすごしていたのですが、あるとき突然大きなショックに出会うことになりました。

当時は、まだまだ人々の中に、左利きに対する偏見が根強く残っていた時代です。
「ぎっちょ/左ぎっちょ」(※)という言葉が一般に普通名詞として使われていました。

時代がまだ「差別」という考え方に敏感でなかった時代でもあったのでしょう。
マスコミにおける「差別(用)語」の登場がいつからかは存じませんが、世間一般ではまだ「差別(用)語」といったものの存在を認識していなかったのではないでしょうか。

(※)「ぎっちょ/左ぎっちょ」という言葉が実際に「差別(用)語」であるかどうかは別にして、一部マスコミではそのような言葉の一つとされているようで、一般にもあまり使われなくなってきています。
また、左利きの人の中でも両論あり、私の小さい頃のように差別的にこの言葉を用いられた経験から「嫌だ/差別(用)語だ」という人もいます。
単に「左利きを表す言葉であり、差別的な意味合いはない」と考え、「実際に使っているし、親しみの気持も抱いている」という人もいます。


 ●最初の衝撃!

はっきりした記憶はないのですが、多分小学四年生ぐらい(1963(昭和38)頃か?/9歳?)ではなかったでしょうか。
多分おばあちゃんが亡くなったお通夜の晩だったろうか、と思います。

おばあちゃんのうちで親戚の人がそれぞれ順番に交代で食事をすることになりました。
うちの家族も、親兄弟別々に食事をしました。

私の順番のとき、知らないおじさんと一緒になり、ほかにも一人か二人いっしょにいました。

そのとき、私が左手で箸を使っているのを見たおじさんが、「左利きは頭がおかしい」というような発言をしました。
具体的な言葉は忘れてしまいましたが、そういう感じの発言でした。

まだ子供だった私はただ小さくなって聞いているだけでした。

当時もそれ以前も、(学校内ではまったくなかったことでしたが)近隣で子供たちから「ぎっちょ!ぎっちょ!」とはやしたてられることはありました。
ですから、ある程度のことには慣れていたはずです。

世の中には左利きのことを悪く言う人もいるのだ、という事実は知っていましたし、実際、私自身左利きであることに対する「引け目」を感じていました。


 ●「頭がおかしい」発言によるショック

それでも正直この言葉は、ショックでした。
「左利きはおかしい」というのなら、ある程度耐えられたでしょう。
しかし、「頭がおかしい」は、非常に強烈で、ダメージの大きな言葉でした。

「頭が悪い」ぐらいなら聞き流すこともできたでしょう。

(私自身、家庭内では親からも、そういう言葉を聞かされたことはありませんけれど。

 少し脱線しますが、書いておきます。

 うちの親は、子供を悪く言うようなことはまずありませんでした。
 殴るなど手を挙げることもまずありませんでした。
 何か悪いことをしたとしても、せいぜいがシッペぐらいでした。
 ひどい悪さをした記憶もありませんでしたが。

 お天道様が見てはる、ばちが当たる、といった言い方で叱ることはありました。
 私の場合、内気と言いますか、人前で挨拶できない子だったので、挨拶は? と注意されることはよくありました。)


「頭が悪い」程度のことならば、自分でも特別賢いとか頭がいいと思ったことはありませんでしたから、それはそれで致し方ない、という気持ちにはなったでしょう。
しかし、何度も言いますが「頭がおかしい」はかなり気になりました。


要するに、左利きは<頭の“配線”が狂っている>というようなニュアンスだったのでしょう。
<頭の“配線”が狂っている>から、結果として、<左手/側を使うような誤った行動を起こすのだ>的なイメージです。

これは、“今”の、大人になってからの私なりの解釈です。

ただ、当時の私の感触を思い出せば、<異常な人間>、差別(用)語で言えば、<気違い>という単純なものです。
単純な言葉だからこそ、強烈なのです。

とはいえ、その場では大人相手ということもあり、何も言えませんでした。


 ●親にも言えないこと

心は打ちのめされていましたが、「誰にも言えない」という気持ちでした。
親に話せば、それなりに慰めてももらえたかもしれません。
何かしら力になってもらえたかもしれません。

しかし、「口が裂けてもそれは言えない」という気持ちでした。

「親に心配をかけることはできない」と思いました。
親が悲しむだろう、という気持ちもあったでしょう。

今、世間でよくいじめが問題になっています。
その際、どうして親にも黙っているのか、といったことが問われますが、私にはその気持ちがわかる気がします。
私の場合も似たようなことだったか、と思うからです。

ネットで上記記事を挙げるまで、一切このことは誰にも話したことはありませんでした

まあ、それぐらい心に突き刺さる言葉であり、心を硬直させる出来事だったのです!


 ●ある決意

それから私は、ある訓練を開始しました。
右手で鉛筆を持って字を書く練習を始めたのです。
運動会のかけっこの賞品としてもらっていた、大きな升目のノートを使って。

もちろん最初は、箸の練習をすることを考えたのですが、箸を人目を避けて練習するのは難しく、まずは字から始めることにしたのです。
宿題をやっているように見せかけて、勉強机でそっと右手で字を書く練習をしました。


そういう気持ちになった動機について話しましょう。

一つは、負けず嫌いという性格があったでしょう。
「見返してやる!」というわけです。

もう一つは、両方やれるようにして、臨機応変に対応することで、危険を避けるという処世術とする、といった気持もあったでしょう。
普段は家でも学校でもさほど左利きであることに圧力を感じてはいなくても、出先で外食したり、字を書く場面などで、何か嫌な思いをしていたので、一念発起したというところです。  

自分では完全に右手にという思いはなく、右手も使えたら、という感じでした。
人前では右手を使い、目立たなくしたい、という作戦です。
そうすれば、バカなおっさんに嫌味を言われて泣くこともない、というわけですね。


さらにもう一つの理由としましては、左利きを恥じる気持ちもあったということです。

家庭やクラス内をのぞけば、以前にも書きましたように、世間では子供たちのみならず大人も含めて、左利きを否定的に考える傾向がありました。
まるで“出来損ない”の人間のように見られていたのです。

当時はまだそういう空気が社会の中にありました。
それを呼吸して人は生きていたのです。

私の心も、当然そういう空気に染まっていたのでした。


自分の左手使いに関しては何も言われなかったのですが、自分の中で、やはり左利きを恥じるというか、隠す気持ちはありました。

内気で気が小さい、引っ込み思案である、自分に自信がないという性格のせいもありましたが、黒板の前に出て発表するのが嫌で、問題などわかっていても手を上げることはしませんでした。

黒板に左手で字を書くのが嫌だったのです。
というか人に見られるのが嫌だったのですね。

人前で晒し者にされているような気がしたのです。

それらの動機から、私は親兄弟に隠れて、そっと秘密の特訓を始めたのでした。


 ●秘密の特訓

ちょうど運動会の時にもらった賞品に、小学校の低学年が使うようなマス目の大きなノートがありました。
「もうこんなノートは使わへんわ」と思っていたのですが、これが役に立つ時が来たのですね。

まずは、書きやすいカタカナから五十音順に書き始め、次にひらがなに入ったという記憶があります。

カタカナというのは、楷書の漢字から作られたといわれています。
基本的に真っ直ぐな線の組み合わせです。
比較的書きやすいものです。
一画ずつ力を入れて、グッグッと書いてゆけばいいのです。

しかし、ひらがなは意外に難しいのです。
曲線が大変だったのです。
適当に力を抜いて丸く書く、というのが難しいのです。

そこで方針変更して、簡単な漢字を先に練習しました。

漢字は基本的に縦横の直線でできています。
カタカナの延長のようなものです。
漢数字の一、二、三というようにだんだん画数の多いものへと進んでゆきました。

自分の名前はもちろんです。

かなりの時間を割いて練習した甲斐があって、いちばん最初に自分の名前をそれなりのレベルで書けるようになりました。

ただし、かなり時間がかかるのです。
全神経を鉛筆の先に集中して一画一画力を込めて書いてゆくわけですから。

しかし練習中、大きな升目に習いたての幼児が書いたような文字を見ていると、情けなくなってきます。
左手でならそれなりの文字を書けるというのに…。
「何でこんなことをしてるんやろう」と思うことも一度や二度ではなかった、と思います。


 ●左手書きでも「けっこうきれいな字だ」

実は、これも同じ小学校の四年生の―たぶん始めの方、一学期でしょうか。

ある日のこと、先生が席を回りながら、みんながノートに字を書く様子を見まわり出したのです。
そして、私が書くノートの字を見て「字がきれいだから書記をしなさい」と言うのです。
あやうく、クラス内の委員をやらされそうになったことがありました。

自分で言うのもなんですが、わりときちっとした性格なので、一画ずつきっちりと教わったとおりの楷書で、小学生としてはそこそこきれいな字を書いていたのでしょう。

ここは何とか逃れたようです。
なぜなら、書記としてのこれといった記憶がありませんから。

でも正直に言いますと、左手書きでしたが、自分でも「けっこうきれいな字だ」と自信はあったように思います。

それでもやはり人目に立つのは、嫌だったのです。
人の目が怖かったのです。


 ●忙しくなれば…

そして小学校も高学年になってきますと、授業中ノートを取ることも多くなります。
そうなってきますと、少しくらいなら右手で字が書けると言いましても、これでは到底間に合わなくなってくるのでした。

家庭でも宿題が増えてきますと、同じく時間が足らなくなってきます。
えっちらおっちら右手で字を書く練習などしている余裕はありません。

というわけで、右手書きはいつしかやめてしまいました。

元々左手で充分できることであり、間に合うことだったのです。
本来、必要のない行為だったのですから、やめるのは当然といえば当然のことでした。

※本稿は、『左利きを考える レフティやすおの左組通信』
「少年時代その1(左利きマイヒストリー・エッセイ)」「最初の衝撃!」を基に書いています。

*参照:
レフティやすおの左利き自分史年表

【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】過去の記事
2012.6.11 第1回
2012.6.19 第2回 幼少時の記憶から
2012.7.5 第3回 利腕を骨折しても…
2012.11.22 左利きの意識とハサミの話

--
※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より
「最初の衝撃!【左利きライフ研究家レフティやすおのできるまで】第5回」を転載したものです。
(この記事へのコメント・トラックバックは、転載元『お茶でっせ』のほうにお願い致します。ただし承認制になっていますので、ただちに反映されません。ご了承ください。)
--
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする