(土睦村の尾張野山林取戻事件から学ぶ官有地編入の歴史)
以前、土睦村(現:千葉県睦沢町)の尾張野山林取戻事件についてとりあげました。
同事件は、土睦村の下ノ郷地区の山林は、もともと住民の共有であったのに、官有林とされてしまったことから、これを住民のものに取り戻そうとした訴訟事件でした。
この事件の背景としては、地租改正という土地から税金収入を得ようとした明治政府の方針があり、誰が土地の所有権を有するのかを確定しなければならず、権利関係が曖昧だったものなので、とりあえずは「公有地」として曖昧なものを曖昧なままにしていたのですが、最終的には官有地に編入しようという方向性になった、これを実現したのが「地区名称区別」の改正であったということをお話ししました。
(地区名称区別の改正による官有地編入の強行)
「地区名称区別」の改正の影響ですが、下記参考文献によりますと、地区名称区別の改正により、民有地編入の条件は厳格となった、すなわち、官有地編入が強行された、とあります。
そのため、東北地方では官有林が多くなりました。
官有林と民有林との割合は、青森県97%、秋田県94%に達したそうです。
官有地に編入するということはどういうことかというと、住民(農民)の入会慣行が排除されるということです。
それまで、住民はその山林に入って、自然に生えていた草木を採取して暮らしており、これを入会慣行というのですが、そのようなことは官有林となったから、もう認めないというのです。官有林に生えている草木は国のものだから、これを取るのは窃盗だ!ということになり、今まで住民に認められていた行為が、一夜にして窃盗犯扱いされるという事態になったのです。
このような扱いをされては、住民の側も怒るに決まっています。
参考文献では、「官有地編入は、入会慣行の排除となり、農民側の抵抗を招いた。官有地に編入された山林原野における入会慣行を求める訴訟が多発し、大審院まで争われた。」と簡潔に記していますが、住民側からすれば、ある意味当然のことであり、それに対して、訴訟で全力で国と争うということが全国で見られたわけです。
(国有土地森林原野下戻法)
さて、このようなことで住民の不満のエネルギーが溜まってしまうこととなり、さすがに政府もこの問題に決着をつけないといけないと思ったのでしょう、1899(明治32)年には、「国有土地森林原野下戻法」を制定します(明治32年法第99号)。
この法律は、地租改正等で官有に編入となり、現在国有である土地森林原野及び立木竹について、官有に編入したときに所有権のある者に対して、返還(下戻)を認めるというものでした。
これだけ聞くと、住民側に配慮した法律のように見えますが、この法律の肝は、下戻し請求に期限をもうけたところで、1900(明治33)年6月30日までの請求に限るというものでした。
同法の交付は、1899(明治32)年4月でしたので、公布の日からわずか1年2ヶ月しか受け付けないというとものでした。
土睦村史では、「明治33年再度農商務大臣に請願をしたが、37年に至って不許可の指令に接した」と書かれているのですが、ここでいう「請願」は、国有土地森林原野下戻法に基づく請求のことであるとすると時期的にはピッタリきます。
(行政裁判)
土睦村の下戻請求は、1904(明治37)年に大臣によって却下されてしまったのですが、この処分に対しては取消しを求める裁判を起こすことができました。
当時は、今と違って、「行政裁判所」という特殊な裁判所があり、下戻請求取消事件は、この行政裁判所での裁判となります。
どこが特殊化というと、「行政裁判所」は一審にして終審の裁判所で、東京にただ一つしか設置されなかったという点です。裁判を起こすには、東京で起こさなければならず、しかも一発勝負で上訴ができないという仕組みだったのです。
裁判所には長官一人と評定官若干人が置かれ、5人以上の合議によるというのも、他の裁判所とは違って独特の仕組みでした。
参考文献では、「行政庁の違法な処分に対する国民の権利救済手段としては極めて不十分な制度であった」と評価されております。現代でも行政訴訟は、住民の勝訴率は高くないのですが、現代よりも行政よりの裁判が多かったのかもしれません。
しかし、この困難な訴訟を乗り切り、勝訴判決を得たというのが、土睦村尾張野山林取戻事件の結果でした。
参考文献:牧英正=藤原明久編『日本法制史』288-289頁(青林書院、1993年)