(甲部地方巡察使復命書・明治十六年)
1883(明治16)年の千葉の裁判所の状況が、国立公文書館所蔵史料で公開されていました。
甲部地方巡察使復命書というもので、政府の公式記録です(参考文献)。
大体こんな感じのことが書いてありました(原文は漢文調)。
「千葉県内の裁判所を視察したが、民事・刑事とも格別繁多とはいえない。
ただ、勧解は数が甚だ多く、毎日原告や被告が法廷に充満している。惜しむらくは、件数が夥しく多いので、裁判官が勧解をするのに十分な時間がないことである。そのため、不調となるものが多い。
検察官と裁判官は相調和しており、軋轢がない。
現在裁判所が設置されているのは、千葉郡千葉に始審裁判所と治安裁判所、望陀郡木更津村及び匝瑳郡八日市場に始審裁判所支庁と治安裁判所である。
千葉と木更津、八日市場の位置間隔は適当だと考える。
民事事件で最も多いものは、金銀貸借、地券その他の証券及び地所売買等に関するものである。
刑事事件では、賭博、窃盗、闘殴が最も多い。」
(明治16年には千葉の裁判所は3か所)
この復命書からわかるのは、明治16年には千葉の裁判所は3か所であったということです。
千葉=始審裁判所と治安裁判所
木更津と八日市場=始審裁判所支庁と治安裁判所
千葉県が成立するのは、1873(明治6)年6月のことであり、裁判所が千葉県に置かれるようになったのも同年からです。当初は寺院に仮住まいをしていたようですが、1874(明治7)年から現在のはじめは、現在の裁判所所在地である千葉市中央区中央の方に移ったそうです。当時は「千葉郡千葉」と呼ばれていたのですね。
(始審裁判所と治安裁判所)
始審裁判所と治安裁判所というのは、聞きなれない言葉ですが、この時期の裁判所の呼び方です。
始審裁判所=現在の地方裁判所
治安裁判所=現在の簡易裁判所
明治の初期は、裁判所の呼称が頻繁に変わっていまして、1881(明治14)年から始審裁判所、治安裁判所という呼び方が使われています。
1890(明治23)年11月施行の裁判所構成法で、始審裁判所⇒地方裁判所、治安裁判所⇒区裁判所と名前が変わりましたので、始審裁判所、治安裁判所という名称が使われたのは、わずか9年程度でした。
(金銀貸借)
当時、民事事件で多いものは、お金の貸し借りの関係と不動産ということで、この問題は昔から多かったのだなと思います。
現在なら「金銭貸借」といいますが、この当時は、「金銀貸借」なのです。
江戸時代から「金銀貸借」という言葉が使われており、明治になっても16年程度だと、江戸時代と同じく「金銀貸借」が使われていたことがわかります。
(勧解)
「勧解」はこの時期独特の制度ですが(明治8年~23年)、現代でいえば、調停と似たような制度です。
当事者の申立てで始まり、裁判官が和解(合意)を試みるという制度。
1883(明治16)年当時は、勧解を先にしないと、訴訟に進めなかったようでして(勧解前置主義)、そのため勧解が多かったのかもしれません。
勧解が不調となるというのは、勧解が成立しない、つまり合意できないということです。
裁判官が丁寧にやれば、合意ができるかもしれないのに、案件が多すぎるのに比して、裁判官が少ないから合意ができないのではないかというのが、巡察使の感想でした。
(参考文献)
・国立公文書館蔵「公文別録・甲部地方巡察使復命書・明治十六年・第一巻」
(請求番号 別00066100-001)