土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、その日の一部の大意を記したものです。
1827(文政10)年2月20日
持病で不快なので引きこもっていた。不快だったが、快くまどろむうちに夢を見た。夢の中では亡き祖父と田のくろを歩いていた。富士山の夢だった。富士山が突然天にのぼり、雲の中にきらめくというところで、目が覚めた。
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1827(文政10)年2月21日
彼岸に入る。
体調は相変わらずよくないので、利兵衛殿に参詣してもらって、卒塔婆を立て、経を読んでもらうようにした。
昨日餅を4斗5升ついたので、各所に配ってもらったのだが、日向に餅を持っていくのを忘れた。日向にはこわめしをふかして持っていってもらった。
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1827(文政10)年2月22日
一橋殿(徳川治済)が2月20日に薨去されたので、公方様(徳川家斉)から通例のとおり喪に服するようにとの触れが来た。普請は今日から7日、鳴物は14日間停止せよとのことである。
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1827(文政10)年2月23日
彼岸の供物をもらったことの覚えを日記に書きつけた。30人余りから白米や油揚げ干瓢をいただいた。
石屋伊助の年貢のことで問題が生じており、与市にいろいろと動いてもらった。
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1827(文政10)年2月24日
与市に頼んで、虎徹の刀等を木原様に持っていってもらった。この刀は、坂村に貸してあったので、昨日谷田部佐助に頼んで取ってきてもらったものだ。
九つ時(正午前後)には隣の主人が来た。夜には田中清吉が来て、それぞれ用向きについて話した。
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1827(文政10)年2月25日
色川助右衛門が金比羅参りをするというので、金二朱を餞別として渡した。助右衛門は40歳ばかりで、いまだに妻がなくひとりで暮らしている。故あって憐れむべきひとである。
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1827(文政10)年2月26日
亡き父の石碑ができたというので、今日の夕方西寺に持っていき、明朝立てるという段取りを、与市に申し入れてもらった。開眼料として200銅も与市に渡しておいた。
夕方には石碑を6人で担いで行ってもらった。
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