文政11年2月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政11年2月21日~24日(1828年)
日記の記載なし。
文政11年2月25日(1828年)曇後晴
八つ過ぎ、細井氏(友人)が川原代(現龍ヶ崎市)から来られた。お相手をしたいが、仕事が忙しい。家に泊まっていただく。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は三中とは同好の士。非常に仲がよく、お互いの家に泊まって、酒を酌み交わしたりしています。昨年秋にも歌の道、国学等の話しをしていました。
文政10年9月23日(1827年)晴
— 断感ろーれんす (@tk23956) September 22, 2022
所用をこなすため河原代(龍ヶ崎市)へ。従業員も同道し。日之沢の二十三夜様を参詣。八つ過ぎ細井氏宅へ。細井氏から酒肴をだされる。夜までよもやま話をし、歌の道、国学、医談、薬品のことを話し、細井氏宅に泊まる。#色川三中 #家事志
文政11年2月26日(1828年)
細井氏(友人)の相手をしたいが、今日も多忙のためできない。そのため、本日もお泊りいただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
せっかく細井氏が訪ねてきてくれたのに、三中は本日多忙であり、相手をすることができずにいます。三中にしては珍しいことです。それだけ仕事が忙しいのでしょう。
文政11年2月25日(1828年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) February 24, 2023
曇後晴 八つ過ぎ、細井氏(友人)が川原代(現龍ヶ崎市)から来られた。お相手をしたいが、仕事が忙しい。家に泊まっていただく。#色川三中 #家事志
文政11年2月27日(1828年)
細井氏と共に真鍋(土浦市)の善応寺に行く。康哉和尚と会う。万葉集に詳しく、国学では高名。悪い噂のない清僧。言葉は静かで柔らかい。当代の英才であって、その名は関八州にまで響いている。(続)
#色川三中 #家事志
私は康哉和尚とは初対面であるので、山本山の茶をお贈りした。雅な話をお聞きし、時のたつのもあっという間であった。四つ半、細井氏は柿岡(石岡市)へ行き、私は深谷(かすみがうら市)に行くので別れた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
山本山。ホームページにはこう書いてあります。
〈山本山は元禄三年(1690年)に、煎茶商として日本橋の地に創業したと伝えられています。〉
文政期には創業百年を超えており、「山本山」のブランドは確立していたことがわかります。
<文政11年2月27日(1828年)補遺>
#色川三中 #家事志
父親がかなりの負債を残して亡くなり、私が家を継がなければならくなった。家業に専念するため、書物の一冊も手に取らず、学問もするまいと思っていた。
あるとき病気になった。病気で寝ているとても暇だ…。仕事の合間にも手持ち無沙汰になるときもある。家業の復活、負債の返済のことばかり考えていると、病気が治るどころか重くなっていくようだった。
だったら、「なるようになる」という精神でいった方がよいのでは?成り行きまかせでも、時が至れば成就するものだ。自分が望んでも時至らなければ、成就しない。望まなくても時が至れば成就する。善応寺の康哉和尚とお会いできたのも、時が至ったからだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
学問の道に進みたいと思っていた三中ですが、多額の借金を抱えたまま早くになくなったため、学問の道は断念。しかし、自然体で臨めば道が開けるときがあるという境地に立つことができたようです。三中は数え27歳ですが、この老成ぶり。
文政11年2月28日(1828年)
色川三中先生、本日ご休筆です。