眠れない夜を過ごした。
自分の気持ちをセーブ出来ない不甲斐なさと、彼に会いたいと願う想いが、一晩中私の中でせめぎ合い、私の心を容赦なく引き裂いた。
夜通し散々流した涙の名残が、枕に微かに残っている。
カーテンの向こう側が明るんできたことに気づいた時、携帯が鳴って、彼からメールが届いた。
添付されていた写真は、笑顔でVサインをしている彼本人だった。
『俺やで』
笑顔がすごく楽しそうなのは、メンバーと一緒だからだろうか。
見ているうちに、思わず笑いがこぼれた。
まったく。
どういうタイミングなんだろう。
彼に会いたがっていた私の気持ちに気づいていたかのような、実に絶妙なタイミング。
しばらくはこれで我慢してくれと言うことだろうか。
ま、いっか。
私はその写真を待ち受けに設定した。
「あれ?眼鏡なんて珍しいですね」
出社して、自分の部署にたどり着くまで、誰かとすれ違うたびに同じことを言われた。
泣きすぎて腫れた目を誤魔化すための伊達メガネだったが、使い捨てコンタクトを切らしちゃって…と嘘の言い訳をした。
自席に落ち着いてからは、雑念を追い払って、黙々と仕事をこなした。
イベントの後にやる事務作業は決まっている。
それを順に片付けて午前中に終わらせると、午後からは夏のイベントの企画会議に出た。
今日の打ち上げの店の場所を確認して、会社を退社しようとした時、彼からのメールが届いた。
今回、写真はなかった。
変わりに奇妙なメッセージが書いてある。
『暗号はとけたかな?』
何かの間違いかと思った。
別の誰かに送るはずのメールを間違って私に送ったのかと思った。
『暗号ってなに?』
確認するために返事を送ると、ちょっとしてからメールが返ってきた。
『毎日送ったやろ』
ダイレクトに返ってきたことからすると間違いではないらしい。
じゃあ、暗号って?
毎日送った?
ということは、まさかあの写メのこと?
混乱した頭で、彼の言った意味を考えていると、またメールが届いた。
『0時までに回答すること』
これから打ち上げだと言うのに。
そんな暗号の答えを考える余裕なんて…。
雪が降ってきたよ、と誰かの声がした。
振り向くと、暗い窓の外に白い綿雪が舞っているのが見えた。
打ち上げの席でも、眼鏡のことをつっこまれた。
「意外と似合うね」
意外とってなんやねん。
「なんだっけ、こういうの。メガネ萌え?」
いや…あなたに萌えられても…
使い捨てコンタクト云々の言い訳をここでも使ったが、今回のイベントの企画の段階から二人三脚でやってきた担当者は、私の目が腫れていることに気がついたのか「何か辛いことでもあったんですか?」と聞いてきた。
正直に話すことでもないし、バレンタイン前にふられちゃったのよ、と冗談めかして笑ってごまかした。
打ち上げは2次会まで参加したが、3次会は丁重にお断りした。
いつまでも代理店の人間がいたのでは、話したいことも話せないだろう。
まだ終電がある時間だったが、雪がかなり降っているので、その影響が気になった。
私はタクシーを止めて乗り込んだ。
窓の外、雪明かりに照らされて闇に浮かぶ都内の光景をぼんやり眺めていると、電話の着信音が聞こえてきた。
かけてきた相手の名前を見るや否や、私は急いで「もしもし」と出た。
― おまえ、ええ加減にせえよ
久しぶりに聞く彼の第一声にしてはひどすぎる。
― なんでぜんぜん電話出えへんねん?
「え?出てるけど…」
― ちゃうねん。おまえ、俺がさっきから何度電話してたと思う?
そういうことか。
着信履歴には、彼の名前が並んでいるに違いない。
「ごめん。さっきまで打ち上げだったから…」
― 打ち上げってあれか?前に聞いたバレンタインのイベントか?
「うん」
― どうやった?成功やったん?人いっぱい来たんか?
「うん」
― そっか良かったな。お疲れさま。
いつの間にか、彼の声が優しくなっていて、ホッとした。
― で、分かったん?
何が?と聞こうとして、すんでのところで質問を呑み込んだ。
暗号のことをすっかり忘れていた。
「ごめん、まだ…」
― え?まだなん?おまえ、これそんな難しい問題やないで。DEROの問題よりずっと簡単やで。
「もう酔ってて頭働かんし」
― なに都合のいい言い訳しとんねん。考えろや。最初の写真は何やった?
「…日の出」
― もうそっから間違っとるし。他の言い方あるやろ?
「…サンライズ」
― なんで英語にいくねん。もっとシンプルでええねん。シンプルで。
「夜明け」
― ちゃうシンプルて言うたやろ。朝の太陽はなんて言いますか?あ、まあ、このまんまでもええねんけど…
「え…朝日?」
― そう。次の写真はなんやった?
「軍艦巻き」
― なんで見たまんまを言うねん。
「お寿司」
― おまえ、アホか。俺より頭悪いんちゃうか。おまえの好物やろが。
「あっ…いくら?」
― うん。で、次は。
「ラーメン」
― 早いな。次なんやった?
「豚しゃぶ」
― 調子出てきたやんか。最後の写真は?
「きみ君」
― あんなあ、そんなんやったらいつまでたっても解けへんで。まあ、下の名前ってことは合っとるけどな。
今のはボーナスヒントやで、と彼は言った。
― 頭で考えるだけじゃわからんちゃうかな。なんかに書いてみ。
書く…
私はバックから手帳を取り出して、鍵となるはずの言葉を書き連ねた。
朝日
いくら
ラーメン
豚しゃぶ
きみたか
いや違う。
きみたかじゃない。
朝日
いくら
ラーメン
豚しゃぶ
きみたか× → ゆう
だが、書き出した文字を眺めてみても何も浮かんでこない。
私は何を見落としてるんだろう。
「お客さん、信号渡ったところでいいですか?」
タクシーの運転手がバックミラー越しに聞いてきた。
信号待ちの間、私がバックから財布を出そうとしていると、運転手がまたバックミラーを通して話しかけてきた。
「それ、符帳ですよね。文字を同じ『かな』とかにしたらわかるんじゃないですか」
携帯越しに聞こえたのかもしれない。
彼が笑いながら呟いた。
― ずいぶん親切な運転手さんやな。ヒント出しすぎや。
私は文字を全部ひらがなに書き直してみた。
あさひ
いくら
らーめん
ぶたしゃぶ
ゆう
え?
これ…
― 解けたみたいやな。じゃあ電話切るで。
「え?ちょっちょっと待って!」
私の呼びかけを無視して、「またな」と言って彼は一方的に電話を切った。
「面白いことを考える彼氏だね」
私に釣り銭を渡しながら、運転手はニッコリ微笑んだ。
私はタクシーを降りて、マンションの遊歩道に向かった。
雪はまだ深々と降り続いている。
遊歩道の石畳に積もった雪が、この夜の冷え込みで凍結し始めていた。
ヒールのあるブーツで滑らないよう、慎重に歩いた。
「おかえり」
凍てついた夜気の中で耳にした彼の声に、私の心がざわめいた。
これは彼なりのサプライズなのだろうか。
私は懐かしいシルエットに向かって走った。
短い距離なのに、何度も足をとられて、最後は彼が笑いながら転びかけた私の腕をつかんだ。
「おまえ、ホンマ、アホやな。雪なのにそんな靴履いて」
「だって、今日は雨って言ってたから」
彼はまじまじと私の顔を見た。
「どしたん、眼鏡なんかして。珍しいな」
「…そのフレーズ聞き飽きた」
落葉した街路樹や、遊歩道の左右にある植え込みがうっすらと雪化粧していた。
街灯の光がスポットライトのように、その幻想的な姿を照らしている。
「あんなん普通に言ってくれればいいのに。アイラブユーでも愛してるよでも」
「いやよう言わんわ。無理、絶対無理」
あれかてホンマはめっちゃ恥ずかしかったんやで、と彼は顔を赤らめた。
「いつもおまえんとこで、チョコ食わせてもらってるしな。逆チョコゆうのもあるって聞いたけど、結局、俺があげたもんを俺が食うことになるやろ」
「そうかもね」
「ぜったいそうやで。したら、女の人はチョコやなくても、花とかメッセージとかでも嬉しいもんやって、気持ちが伝わるもんがいいって聞いたから」
「だったらもっとストレートでいいのに」
「だからそれは言われへんて言うとるやろ」
この人、たぶん一生、もしかしたら死ぬ間際でも「愛してる」なんて言わないかも。
「だけど、俺が電話せえへんかったら、おまえ、ずーっと分からんかったんちゃう?」
「そんなことないよ」
きっとそうかもしれない。
なぜ電話をくれないのかと、泣いていた昨日の自分を思い出す。
白い雪の上を、街灯に照らされて、二つの影が寄り添いながら揺れていく。
音もなく降りしきる雪の中を、彼と歩いていると、このままどこまでも行けそうな気がした。
彼と一緒に見る雪は嫌いじゃない。
私は立ち止まって、天を仰いだ。
漆黒の空から舞い落ちる雪を受け止めるように両腕を広げた。
「何しとるん?」
彼が私の顔を上から覗き込んだ。
「プレゼント」
「プレゼント?」
「天からのプレゼントをもらってるの」
彼も空を見上げた。
「そやな。冬にしかもらえんプレゼントやもんな」
天からの白い小さなプレゼントは、私たち二人の周りに次から次へと舞い降りている。
「おまえ、プレゼントもらうんもええけど、顔中雪だらけやぞ。眼鏡とかすごいことになってるで」
彼は笑って、私の眼鏡を外した。そして頬の雪を優しく払いのけると、指で私の唇に触れた。
唇の上に残っていた冷たい雪が、彼の柔らかく温かい唇で瞬く間に溶かされる。
こんな雪の中で寒くてたまらないはずなのに、彼に抱きしめられ、私は体の内側から熱を帯びていく。
そのまま夢の世界にいざなわれるように、私はゆっくりと目を瞑った。
Fin
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
スミマセン
14日中にアップするはずだったんですが、0時を目前に書き上がっていた後半部分が、携帯の操作ミスで、なんとすべて消えてしまいました
マヂ凹みました
最初、しげの呪いかと思いました(世界まる見え見たよ)
まあ携帯で書いてるとよくやる失敗なんです
PCだったらバックアップ機能があるからそんなことはないんだけど
でも最近はそういう場合
「きっと文章がイマイチだったから、文学の神様が消しちゃったんだよし新しく書き直そう」
と前向きに考えるようにしてます
それでも最初に書いた文章の呪縛に捕らわれちゃうんだけどね…
えーと、初めての連載でしたが、いかがでしたでしょうか。
時間に急かされるように書いた所もあるので、個人的に反省する点があったりもするのですが
感想やコメントを頂けたら、今後の励みになります
さて今日はCONTROLですね
早く寺西君に会いたいなっ