歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ⑤ー日本最後の築城ー

2015-05-04 08:08:02 | 日記
何か視聴率しか話題になっていない大河「花燃ゆ」ですが、
タイアップした群馬の某会社社長が、嘆いているとかいないとか?
で、このブログでもまた語ってみよう。


そもそも前橋は古来は厩橋と呼ばれました。
「うまやばし」ではなく「まやばし」と読みます。
箕輪城の支城として築城され、初代城主は長野氏とされています。
武田信玄を破った長野業政が特に有名ですが。


戦国時代には上野は武田、北条、上杉の草刈り場と化しますが、
上杉謙信の関東経営の拠点となります。
武田氏の滅亡後には滝川一益が入りますが本能寺の変後に撤退し、
後北条氏を経て徳川家康の領有に。


平岩親吉、酒井氏を経て寛延2年(1749)に姫路から松平朝矩が入ります。
この松平氏は結城秀康の系譜です。
ちなみに、智本光隆の母方はこの時に姫路から前橋にw
酒井氏の時代に厩橋→前橋と名称を統一し、
この時期に城郭を整備して「関東の華」と呼ばれる名城となります。
西に大河(利根川)、東に平地という縄張りは、名城の条件を満たしていると言います。
(※家康が平岩氏に与えた際、「汝に関東の華を与える」と言ったともいいます)


ところが、戦国時代基準では名城でも、平和な時代が続くとそうでもなく。
特に西の利根川が城を浸食し、本丸は削られて川に喰われ・・・
3の丸の位置に本丸を移してもそこも川に・・・をくり返し。
松平氏はついに城の維持を断念し、
明和4年(1767)に飛び地の川越に本城を移してしまいます。
2年後に城は破却されて町も荒廃しますが・・・
ところがペリー来航により横浜開港、
そして上州の生糸が欧州に輸出されると、
前橋の生糸商人は爆発的な富を得ます。


どの程度爆発的かといえば・・・
そうですね、城を自前で再建して藩主に前橋帰城を願い出るくらいです!!
かくして慶応3年(1857)に松平氏は川越城から前橋城に戻りますが・・・・
御存知、翌年が明治維新。
前橋城は「日本最後の築城」となった次第です。


維新後は藩主は東京に住み、せっかくの新築はむなしく空き家に・・・
しないんだな、当時の前橋商人は。
ここから、前橋の「明治」が始まるわけです。
その中心となったのが、下村善太郎というひとりの前橋商人。
楫取素彦の横っ面を札束で引っぱたくことになる男です(笑





前橋城址
悲しいくらい遺構はない・・・


智本光隆