歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ⑥-名声高き下村善太郎ー

2015-05-11 21:50:45 | 日記
さて、県都前橋の市役所前に銅像が建ち、
県庁方向を見つめる下村善太郎。





地元では「下村翁」と今でも親しまれており、初代の前橋市長でもあります。
子孫が何回か前の市長選に出馬して、
かすりもしなかったがそれはそれとして・・・


その下村善太郎・・・文政10(1827)に,
前橋本町の小間物屋「三好善」の長男に生まれ、利発な上に腕白な少年に成長。
16歳で妻せいと結婚し家業を継ぎますが・・・
城主不在の時期の前橋は風紀的にも荒れており、
「腕白」のほうに比重が置かれたのか博打に手を出し、本業を傾かせてしまいます。
このまま遊び呆けていて、詩人として名をのこした方もいたとかいないとかw


しかし、下村青年はここから一念発起すると、
23歳の時に妻と八王子へ。徐々に商人としての才覚を顕わします。
そして転機となったのが横浜開港。
ここで生糸貿易で商才を発揮し、ついに巨万の富を得ることになりました。
同時期に前橋の父親が亡くなると帰郷し、
糸繭商として前橋での商売を再会させます。
彼の取った手法は早飛脚により横浜の糸相場の動きを誰よりも早く知り、
ついには自分の店を前橋一の大店にするだけではなく、
「糸の街・前橋」をリードする存在になるわけですが。


さて、、、こんな状況下で起こったのが、
明治初期の廃藩置県による「群馬県県庁問題」なわけです。
群馬は新田氏の没落以来、安定した大勢力が存在せず、
江戸時代も11の藩が乱立した状態にありました。そのため・・・


明治4年(1871) 群馬県成立(県庁・高崎)
明治5年(1872) 県庁が前橋に移転
明治6年(1875) 熊谷県成立(県庁・熊谷)
明治9年(1876) 群馬県再成立(県庁・高崎)



・・・と短期間に非常に目まぐるしく変わります。
しかし、明治9年に群馬県が再成立したものの、
高崎城は陸軍の管轄下にあり、
県庁各庁舎は高崎のあっちこっちにあり不便を極め・・・
さて、ここに下村たちは目をつけました。
前橋にあるものは?ほとんど新品状態の前橋城です。
これを存分にお使い下さいと!


実際のところ、交通の要地である高崎に対して、
利根川東岸の前橋は平和な時代となれば地理的には不利です。
しかし、この時期の前橋の人々の多くは、
城主不在時の街の荒廃ぶりを良く知っていたと思われ、


加えて、幕末に「八公二民」といわれた高税率・・・
つまり経済的に疲弊していた高崎にくらべ、前橋は生糸のお陰で非常に裕福でした。
明治9年の群馬県再成立に際し、県令に赴任した楫取素彦のために、
下村は個人で1万円を用立てたといわれています。
これに生糸商人を中心に更に寄付が集まり、その額はなんと約2万7000円
この時期の2万7000円が現在でいくらになるのか諸説ありますが、7億円とも、
20億~30億ともいわれております。


この他に、楫取のために本宅、別邸等々を用意したのはもちろん言うまでもなく。
明治9年の12月、早々と県庁の前橋移転が決定されました。
さすが「至誠」の男・楫取素彦。素早い「市政」運営です!
と、ボケるわけではないが、一体どんな感じだったのやら。
そうだな・・・


楫取「ひさこ~ひさこ~見ろよ30億だってよ~」
寿子「わ~さんじゅうおくぅ。う~れ~しい!!」
楫取「で、何が褒美で欲しいだ。何?県庁?任せとけ、任せとけ」
寿子「ね~ね~けんちょうっとなに~おいしいの~?ええい、かんちょ!!」
楫取「あいたぁ!」



・・・・・ギャグになるな。
あとで最後のところはちょっと真面目に考え直そうww



智本光隆