ホセ・ドノソ著『夜のみだらな鳥』
“分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。
その子息ヘンリーとウィリアムに宛てた父ヘンリー・ジェイムズの書簡より。“
私は未だかつて、こんな奇々怪々な読書体験をしたことがなかった。混沌と熱狂のラテンアメリカ文学の中でも、『夜のみだらな鳥』は極北というべき存在であろう。
2段組で440ページ、狂気の沙汰がえんえんと続く。聖と俗。善と悪。美と醜。浄と穢。現実と妄想。真実と嘘。歴史と神話。あなたが私で、おれがお前。すべてが等価で、すべてがごった煮。リンコナーダの屋敷とエンカルナシオン修道院、物語は殆どこの二か所を行き来しているだけなのに、自分が今、いかなる時間・空間軸に居て、誰の話を聞いているのか分からなくなる。
時間・空間軸がシッチャカメッチャカなので、あらすじを纏めるのが困難だが、ものすごく掻い摘んで言えば、主人公は語り手の「おれ」、《ムディート(小さな唖の意味)》と呼ばれるウンベルト・ペニャローサ。そのほかの主要人物はアスコイティア家の当主ドン・ヘロニモと彼の妻イネス。この三人の確執が主軸となっていて、そこにイネスの生んだ畸形児《ボーイ》や彼のためにリンコナーダの屋敷に集められた異形の人々、かつてアスコイティア家で働き、今は修道院に押し込められている老婆たちが絡んでくる。……こう書いてみても、申し訳ない事に書いている私自身の認識があやふやなのだ。
「一人称」の人物が脈絡もなく切り替わるので、誰が何を言っているのか判然としない。主人公の「おれ」は別の時間・空間軸の《ムディート》である「おれ」と度々入れ替わる。「おれ」に話しかけられる「あなた」「お前」が登場人物の誰かだったり、読者だったりする。
しかも、場面が説明なしで唐突に切り替わる。登場人物同士は過去を共有していることもあるが、既出のエピソードと矛盾したことを平然と語ることもある。
巻末の解説が分かり易かったので、少し引用しておく。
“『夜のみだらな鳥』 のなかでは時間的および空間的な転移が自在に、実に気ままに行われ、合理的な因果の関係もまた思いのままに無視されている。登場する多数の人物の個々の像も不分明なら、彼らのあいだの関係も曖昧かつ矛盾に満ちていて、常に転倒の可能性をはらんでいる。ある不可解な魔的な力が「時間と映像と平面とを混乱させてしまった」 (三八二ページ)世界が 『夜のみだらな鳥』である。”
“語り手ウンベルトの物語は、貧しい小学教師の子として生れた少年時代から老年の現在まで、その意識と無意識のなかに蓄えてきた怨念、執念のかずかずによって歪曲され、誇張されている。人物も話もその虚実が明らかではない。しかしその場所は、ほんどリンコナーダの迷宮的な屋敷と、これまた迷宮と呼ぶにふさわしいエンカルナシオン修道院のふたつに限られている。ウンベルトの妄想は常にそれらの場所をめぐって発生し、亢進し、萎靡し、消尽していく。”
冒頭のラケル夫人によるブリヒダの葬儀の場面は、リアリズム小説っぽい形式をとっているので、読者は油断して通常の小説のように読み進めてしまう。
語り手の「おれ」は、《ムディート》と呼ばれている。ブリヒダが晩年を過ごしたエンカルナシオン修道院にひそむ聾唖者だ。だが、彼が聾唖者だというのなら、冒頭の会話は誰が聞いたのか。彼は別の場面では平然と喋りさえもする。つまり、聾唖者というのは本当ではないのだ。彼は嘘つきなのか、狂人なのか、ともかく、信用できる語り手ではない。
通常の小説では、読者は作者や語り手の言葉を疑うことなく作品世界の中に入っていける。作者や語り手は事実を語るもの、というのが小説を読む上での大前提となっているからだ。
しかし、『夜のみだらな鳥』では、語り手が初っ端から事実とは異なることを語っていて、しかも虚偽であることを隠さない。或いは、本人は本当のことを語っているつもりなのかもしれない。意識的に嘘をついているにしては、あまりにも平然と辻褄の合わないことを語るのだ。何にせよ、信用できない人間の語る物語ということを念頭に読み進めていくことになる。
このあと、場面は修道院に切り替わり、そこから先はあらゆる垣根が取り払われた何でもありの世界になる。「おれ」はその時その場で、老人になったり赤ん坊になったり、体が大きくなったり小さくなったりする。自分が居合わせなかった場面の出来事や他の人物の心中も見てきたように話す。
修道院に暮らす老婆たちが古い物語を語る。
むかしむかし、裕福で心優しい地主がいた。地主には、働き者の九人の息子と、目に入れても痛くないほど可愛がっている末娘がいた。ある日、一番上の兄が情を通じている女から、末娘の乳母が魔女であり、二人は一番鶏が無く時間までこっそり出歩いているという噂を聞く。兄は父や弟たちと相談し、黄色い雌犬に化けた乳母を捕らえ、血を吹くまで殴り、丸太に括り付けてマウレ河に放り込んだ。末娘は修道院に押し込めた。魔女の狙いは娘をさらって、その体の九つの穴を縫い塞ぎ、《インブンチェ》という化け物にすることだった。魔女は哀れな罪のない人間をさらい、地下の隠れ家に押し込めておくのだ。目、口、陰部、肛門、鼻、耳、手、足、すべて縫い塞ぐ。伸びる髪や爪はそのまま放っておく。そして白痴の状態になるのを待つ。獣よりも不潔で惨めな、虱だらけの《インブンチェ》は魔女の慰み者となる。
《ムディート》の隠遁する修道院では、《インブンチェ》は老婆たちによって作られる。
老婆たちは人間を手に入れると、全身の穴を縫い付け、目をえぐり、声を吸い取り、手足をもぎとって袋のような異形に変える。おしめを替えたり、服を着せたり、献身的に世話するのだが、生きていく上で必要なことは何も教えない。だから、《インブンチェ》は話すことも、歩くことも出来ない。世間から存在を隠され、部屋から出ることは赦されず、老婆たちの玩具として生きて行かなければならない。
《インブンチェ》は、この物語の象徴である。
外部に繋がる穴をすべて塞がれ、己の内部に閉じ込められて育つ赤ん坊。内的現実と外的現実との落差を知らず、何が真実なのかも知り得ない。五感と移動の自由を剥奪されたまま、肉体の迷宮の中で果ての無い夢を見る永遠の胎児だ。
修道院で暮らす孤児の一人、イリスが妊娠する。イリスは《ヒガンテ》という不良少年が子供の父親と思っているが、実は父親は《ヒガンテ》の仮面を被った「おれ」なのだ。「おれ」はヘロニモに復讐するためにイリスに子供を生ませ、それをアスコイティア家の跡継ぎにしてやろうと目論んでいる。
かつて、「おれ」は秘書としてヘロニモに仕えていた。
「おれ」はしがない教師の息子だった。
「おれ」は子供のころ、町でヘロニモを見かけて以来、身の内に執念深い渇望を抱くようになった。彼と一体となるか、それとも彼を八つ裂きにするか。彼を切り刻んで、立ち居振る舞いや肌の色、自信たっぷりな目つきなど、彼のすべてを自分のものにしたいと思った。すべてを所有している彼に対して、「おれ」はゼロに等しい人間だった。
父親の期待を背負って法学部に入学した「おれ」は、人類学博物館でヘロニモと知り合う。
その時、「おれ」はヘロニモに、わたしは作家です、と言った。何一つ書けたことが無いにも関わらず。これが運命の分かれ道だった。
父親と仲たがいした「おれ」は、ロシータという女性と同棲を始めていた。
最早弁護士や公証人になる気は失せていたが、小説は相変わらず書けない。それでもロシータと一緒にいると、父親の前では絶えず起きていた胃の痙攣が起きなかった。
ある日、「おれ」の留守中にヘロニモが訪ねてきた。明日10時に屋敷に来てくれと言付け、名刺を置いていったのだ。「おれ」は、今夜限りでロシータと抱き合って眠ることはないと思った。
「おれ」は、ヘロニモの屋敷に住み込み、秘書として働くようになる。
上院議員となったヘロニモの演説中、「おれ」はヘロニモを狙った凶弾を腕に受けて倒れる。しかし、負傷した「おれ」の体は速やかに隠された。「おれ」が失神している間にヘロニモは、「おれ」の血を自分の腕に擦り付け、自身が凶弾を受けたことにして、群衆の前で演説を続けた。彼はこの千載一隅の好機を利用して、暴力に屈しない勇敢な政治家として有権者たちの心を掴んだのだ。「おれ」は傷も血もヘロニモに奪われたのだ。
「おれ」に無断で、「おれ」の傷を奪った者は報いを受けねばならない。
「おれ」は、ヘロニモの妻イネスの乳母ペータ・ポンセの魔術で、ヘロニモとしてイネスと交わる。……と、思ったが、違うかもしれない。「おれ」がイネスだと思って交わったのは、ぺータ・ポンセだったかもしれない。いや、ぺータ・ポンセと交わったのは、ヘロニモだったかもしれない。
ともかく、その結果イネスは妊娠出産する。
生まれた赤ん坊は、“瘤の上でブドウ蔓のようにねじれ醜悪きわまりない胴体。深い溝が走っている顔。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだりがわしくむき出しになった唇や、口蓋や、鼻……それは混乱もしくは無秩序そのものであり、死がとった別の形、それも最悪の形”と表現される畸形児だった。
これが、廉直な政治家、司教や大司祭、福者、大公使、美貌の女性、死を恐れぬ軍人等々、美と秩序の見事な実しか結んでこなかったアスコティア家の最後の人間なのだ。
我が子(かもしれないし、そうじゃないかもしれない)の姿を一目見たヘロニモは、殺意に駆られるが踏み留まった。倫理とか愛情とかではない。殺せばこのカオスの変形に敗北したことになるからだ。彼は強者であり、その証左を見せねばならない。
ヘロニモは、《ボーイ》をリンコナーダに閉じこめ、その周りに重度の畸形者ばかりを集め、外の世界を見せずに育てる。「おれ」はヘロニモの命で屋敷の管理人になる。庭には畸形の銅像が立ち、医者も神父もすべて畸形者ばかり。リンコナーダでは畸形が正常、五体満足こそが異常なのだ。畸形者で溢れるリンコナーダは、ボッシュの描く『悦楽の園』の如き異形の楽園となる。
ヘロニモは「おれ」に、作家として《ボーイ》の世界を記録する仕事を任せる。自分の息子を通常の世界から完全に遠ざけるという、ヘロニモの実験の結果を記録させるのだ。
《ボーイ》に違った生まれ方や死に方などない。《ボーイ》が知ってはならぬ言葉の中でも特に大事なのが、始めや終わりを示す言葉だった。理由、時、内、外、過去、未来、開始、終末、体系、帰納に類する言葉は一切、ご法度。《ボーイ》が生きているのは、呪縛された現在である。よその場所、他の時刻など存在しない。
胃病を拗らせた「おれ」はやがて喀血し、意識を失う。そして、意識の無いうちに天才外科医で自身も重度の畸形者であるアスーラ博士によって、健全な臓器を畸形者たちに分配され、自分は畸形の臓器を移植され、元の姿の20パーセントに縮んでしまう。
別人のようになってしまった「おれ」は、リンコナーダを逃げ出し、乞食としてあちらこちらを渡り歩いた。そして、いつしか《ムディート》として、エンカルナシオン修道院で暮らすようになった。修道院には六人の魔女と呼ばれる老婆が、孤児のイリスの妊娠を処女懐胎の秘蹟になぞらえ、包帯で幾重にも巻かれた《ムディート》を赤ん坊に見立て、人形遊びに耽る。外界から遮断された修道院と包帯巻きの《ムディート》は、地下の隠れ家に閉じ込められた《インブンチェ》の物語の再現である。
年老いたイネスは清貧の誓いを立てて修道院に移り住み、毎晩賭けをして老婆たちの持ち物を取り上げる。イネスはアスーラ博士によってペータ・ポンセの臓器を移植され、徐々にペータ・ポンセになりつつあった。イネスは賭けでイリスが生んだ赤ん坊まで取り上げるが、その赤ん坊は小さく縮んだ「おれ」なのだ。
オブセッションを少しずつずらしながら何度も反復させる。物語は歪み、生き物のように増殖する。外部と内部、現実と妄想、自己と他者の境界が崩れ、入り乱れる。地主の末娘と乳母がイネスとぺータ・ポンセに重なり、リンコナーダに閉じ込められた《ボーイ》と包帯で巻かれた《ムディート》、そして老婆たちががらくたを詰め込んだ包みが《インブンチェ》と重なる。人物は次から次へと仮面=顔を取り換え、アイデンティティの曖昧さが募っていく。物語全体が、出入り口を縫い付けられた袋状の迷宮と化す。そこは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森でもあるのだ。
老婆の手が「おれ」という包みをひっくり返し、口を塞ぐ。「おれ」は郷愁と共にここに閉じ込められる。「おれ」が内側から袋を破くと、たちまち老婆の手が傷口を縫い塞ぐ。ひと針、ひと針、丁寧に縫っていく。
ウンベルトだのヘロニモだのは、本当に存在していたのだろうか。極端な話、『夜のみだらな鳥』とは、すべてが《インブンチェ》が見た妄想に過ぎないのかもしれない。
“分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。
その子息ヘンリーとウィリアムに宛てた父ヘンリー・ジェイムズの書簡より。“
私は未だかつて、こんな奇々怪々な読書体験をしたことがなかった。混沌と熱狂のラテンアメリカ文学の中でも、『夜のみだらな鳥』は極北というべき存在であろう。
2段組で440ページ、狂気の沙汰がえんえんと続く。聖と俗。善と悪。美と醜。浄と穢。現実と妄想。真実と嘘。歴史と神話。あなたが私で、おれがお前。すべてが等価で、すべてがごった煮。リンコナーダの屋敷とエンカルナシオン修道院、物語は殆どこの二か所を行き来しているだけなのに、自分が今、いかなる時間・空間軸に居て、誰の話を聞いているのか分からなくなる。
時間・空間軸がシッチャカメッチャカなので、あらすじを纏めるのが困難だが、ものすごく掻い摘んで言えば、主人公は語り手の「おれ」、《ムディート(小さな唖の意味)》と呼ばれるウンベルト・ペニャローサ。そのほかの主要人物はアスコイティア家の当主ドン・ヘロニモと彼の妻イネス。この三人の確執が主軸となっていて、そこにイネスの生んだ畸形児《ボーイ》や彼のためにリンコナーダの屋敷に集められた異形の人々、かつてアスコイティア家で働き、今は修道院に押し込められている老婆たちが絡んでくる。……こう書いてみても、申し訳ない事に書いている私自身の認識があやふやなのだ。
「一人称」の人物が脈絡もなく切り替わるので、誰が何を言っているのか判然としない。主人公の「おれ」は別の時間・空間軸の《ムディート》である「おれ」と度々入れ替わる。「おれ」に話しかけられる「あなた」「お前」が登場人物の誰かだったり、読者だったりする。
しかも、場面が説明なしで唐突に切り替わる。登場人物同士は過去を共有していることもあるが、既出のエピソードと矛盾したことを平然と語ることもある。
巻末の解説が分かり易かったので、少し引用しておく。
“『夜のみだらな鳥』 のなかでは時間的および空間的な転移が自在に、実に気ままに行われ、合理的な因果の関係もまた思いのままに無視されている。登場する多数の人物の個々の像も不分明なら、彼らのあいだの関係も曖昧かつ矛盾に満ちていて、常に転倒の可能性をはらんでいる。ある不可解な魔的な力が「時間と映像と平面とを混乱させてしまった」 (三八二ページ)世界が 『夜のみだらな鳥』である。”
“語り手ウンベルトの物語は、貧しい小学教師の子として生れた少年時代から老年の現在まで、その意識と無意識のなかに蓄えてきた怨念、執念のかずかずによって歪曲され、誇張されている。人物も話もその虚実が明らかではない。しかしその場所は、ほんどリンコナーダの迷宮的な屋敷と、これまた迷宮と呼ぶにふさわしいエンカルナシオン修道院のふたつに限られている。ウンベルトの妄想は常にそれらの場所をめぐって発生し、亢進し、萎靡し、消尽していく。”
冒頭のラケル夫人によるブリヒダの葬儀の場面は、リアリズム小説っぽい形式をとっているので、読者は油断して通常の小説のように読み進めてしまう。
語り手の「おれ」は、《ムディート》と呼ばれている。ブリヒダが晩年を過ごしたエンカルナシオン修道院にひそむ聾唖者だ。だが、彼が聾唖者だというのなら、冒頭の会話は誰が聞いたのか。彼は別の場面では平然と喋りさえもする。つまり、聾唖者というのは本当ではないのだ。彼は嘘つきなのか、狂人なのか、ともかく、信用できる語り手ではない。
通常の小説では、読者は作者や語り手の言葉を疑うことなく作品世界の中に入っていける。作者や語り手は事実を語るもの、というのが小説を読む上での大前提となっているからだ。
しかし、『夜のみだらな鳥』では、語り手が初っ端から事実とは異なることを語っていて、しかも虚偽であることを隠さない。或いは、本人は本当のことを語っているつもりなのかもしれない。意識的に嘘をついているにしては、あまりにも平然と辻褄の合わないことを語るのだ。何にせよ、信用できない人間の語る物語ということを念頭に読み進めていくことになる。
このあと、場面は修道院に切り替わり、そこから先はあらゆる垣根が取り払われた何でもありの世界になる。「おれ」はその時その場で、老人になったり赤ん坊になったり、体が大きくなったり小さくなったりする。自分が居合わせなかった場面の出来事や他の人物の心中も見てきたように話す。
修道院に暮らす老婆たちが古い物語を語る。
むかしむかし、裕福で心優しい地主がいた。地主には、働き者の九人の息子と、目に入れても痛くないほど可愛がっている末娘がいた。ある日、一番上の兄が情を通じている女から、末娘の乳母が魔女であり、二人は一番鶏が無く時間までこっそり出歩いているという噂を聞く。兄は父や弟たちと相談し、黄色い雌犬に化けた乳母を捕らえ、血を吹くまで殴り、丸太に括り付けてマウレ河に放り込んだ。末娘は修道院に押し込めた。魔女の狙いは娘をさらって、その体の九つの穴を縫い塞ぎ、《インブンチェ》という化け物にすることだった。魔女は哀れな罪のない人間をさらい、地下の隠れ家に押し込めておくのだ。目、口、陰部、肛門、鼻、耳、手、足、すべて縫い塞ぐ。伸びる髪や爪はそのまま放っておく。そして白痴の状態になるのを待つ。獣よりも不潔で惨めな、虱だらけの《インブンチェ》は魔女の慰み者となる。
《ムディート》の隠遁する修道院では、《インブンチェ》は老婆たちによって作られる。
老婆たちは人間を手に入れると、全身の穴を縫い付け、目をえぐり、声を吸い取り、手足をもぎとって袋のような異形に変える。おしめを替えたり、服を着せたり、献身的に世話するのだが、生きていく上で必要なことは何も教えない。だから、《インブンチェ》は話すことも、歩くことも出来ない。世間から存在を隠され、部屋から出ることは赦されず、老婆たちの玩具として生きて行かなければならない。
《インブンチェ》は、この物語の象徴である。
外部に繋がる穴をすべて塞がれ、己の内部に閉じ込められて育つ赤ん坊。内的現実と外的現実との落差を知らず、何が真実なのかも知り得ない。五感と移動の自由を剥奪されたまま、肉体の迷宮の中で果ての無い夢を見る永遠の胎児だ。
修道院で暮らす孤児の一人、イリスが妊娠する。イリスは《ヒガンテ》という不良少年が子供の父親と思っているが、実は父親は《ヒガンテ》の仮面を被った「おれ」なのだ。「おれ」はヘロニモに復讐するためにイリスに子供を生ませ、それをアスコイティア家の跡継ぎにしてやろうと目論んでいる。
かつて、「おれ」は秘書としてヘロニモに仕えていた。
「おれ」はしがない教師の息子だった。
「おれ」は子供のころ、町でヘロニモを見かけて以来、身の内に執念深い渇望を抱くようになった。彼と一体となるか、それとも彼を八つ裂きにするか。彼を切り刻んで、立ち居振る舞いや肌の色、自信たっぷりな目つきなど、彼のすべてを自分のものにしたいと思った。すべてを所有している彼に対して、「おれ」はゼロに等しい人間だった。
父親の期待を背負って法学部に入学した「おれ」は、人類学博物館でヘロニモと知り合う。
その時、「おれ」はヘロニモに、わたしは作家です、と言った。何一つ書けたことが無いにも関わらず。これが運命の分かれ道だった。
父親と仲たがいした「おれ」は、ロシータという女性と同棲を始めていた。
最早弁護士や公証人になる気は失せていたが、小説は相変わらず書けない。それでもロシータと一緒にいると、父親の前では絶えず起きていた胃の痙攣が起きなかった。
ある日、「おれ」の留守中にヘロニモが訪ねてきた。明日10時に屋敷に来てくれと言付け、名刺を置いていったのだ。「おれ」は、今夜限りでロシータと抱き合って眠ることはないと思った。
「おれ」は、ヘロニモの屋敷に住み込み、秘書として働くようになる。
上院議員となったヘロニモの演説中、「おれ」はヘロニモを狙った凶弾を腕に受けて倒れる。しかし、負傷した「おれ」の体は速やかに隠された。「おれ」が失神している間にヘロニモは、「おれ」の血を自分の腕に擦り付け、自身が凶弾を受けたことにして、群衆の前で演説を続けた。彼はこの千載一隅の好機を利用して、暴力に屈しない勇敢な政治家として有権者たちの心を掴んだのだ。「おれ」は傷も血もヘロニモに奪われたのだ。
「おれ」に無断で、「おれ」の傷を奪った者は報いを受けねばならない。
「おれ」は、ヘロニモの妻イネスの乳母ペータ・ポンセの魔術で、ヘロニモとしてイネスと交わる。……と、思ったが、違うかもしれない。「おれ」がイネスだと思って交わったのは、ぺータ・ポンセだったかもしれない。いや、ぺータ・ポンセと交わったのは、ヘロニモだったかもしれない。
ともかく、その結果イネスは妊娠出産する。
生まれた赤ん坊は、“瘤の上でブドウ蔓のようにねじれ醜悪きわまりない胴体。深い溝が走っている顔。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだりがわしくむき出しになった唇や、口蓋や、鼻……それは混乱もしくは無秩序そのものであり、死がとった別の形、それも最悪の形”と表現される畸形児だった。
これが、廉直な政治家、司教や大司祭、福者、大公使、美貌の女性、死を恐れぬ軍人等々、美と秩序の見事な実しか結んでこなかったアスコティア家の最後の人間なのだ。
我が子(かもしれないし、そうじゃないかもしれない)の姿を一目見たヘロニモは、殺意に駆られるが踏み留まった。倫理とか愛情とかではない。殺せばこのカオスの変形に敗北したことになるからだ。彼は強者であり、その証左を見せねばならない。
ヘロニモは、《ボーイ》をリンコナーダに閉じこめ、その周りに重度の畸形者ばかりを集め、外の世界を見せずに育てる。「おれ」はヘロニモの命で屋敷の管理人になる。庭には畸形の銅像が立ち、医者も神父もすべて畸形者ばかり。リンコナーダでは畸形が正常、五体満足こそが異常なのだ。畸形者で溢れるリンコナーダは、ボッシュの描く『悦楽の園』の如き異形の楽園となる。
ヘロニモは「おれ」に、作家として《ボーイ》の世界を記録する仕事を任せる。自分の息子を通常の世界から完全に遠ざけるという、ヘロニモの実験の結果を記録させるのだ。
《ボーイ》に違った生まれ方や死に方などない。《ボーイ》が知ってはならぬ言葉の中でも特に大事なのが、始めや終わりを示す言葉だった。理由、時、内、外、過去、未来、開始、終末、体系、帰納に類する言葉は一切、ご法度。《ボーイ》が生きているのは、呪縛された現在である。よその場所、他の時刻など存在しない。
胃病を拗らせた「おれ」はやがて喀血し、意識を失う。そして、意識の無いうちに天才外科医で自身も重度の畸形者であるアスーラ博士によって、健全な臓器を畸形者たちに分配され、自分は畸形の臓器を移植され、元の姿の20パーセントに縮んでしまう。
別人のようになってしまった「おれ」は、リンコナーダを逃げ出し、乞食としてあちらこちらを渡り歩いた。そして、いつしか《ムディート》として、エンカルナシオン修道院で暮らすようになった。修道院には六人の魔女と呼ばれる老婆が、孤児のイリスの妊娠を処女懐胎の秘蹟になぞらえ、包帯で幾重にも巻かれた《ムディート》を赤ん坊に見立て、人形遊びに耽る。外界から遮断された修道院と包帯巻きの《ムディート》は、地下の隠れ家に閉じ込められた《インブンチェ》の物語の再現である。
年老いたイネスは清貧の誓いを立てて修道院に移り住み、毎晩賭けをして老婆たちの持ち物を取り上げる。イネスはアスーラ博士によってペータ・ポンセの臓器を移植され、徐々にペータ・ポンセになりつつあった。イネスは賭けでイリスが生んだ赤ん坊まで取り上げるが、その赤ん坊は小さく縮んだ「おれ」なのだ。
オブセッションを少しずつずらしながら何度も反復させる。物語は歪み、生き物のように増殖する。外部と内部、現実と妄想、自己と他者の境界が崩れ、入り乱れる。地主の末娘と乳母がイネスとぺータ・ポンセに重なり、リンコナーダに閉じ込められた《ボーイ》と包帯で巻かれた《ムディート》、そして老婆たちががらくたを詰め込んだ包みが《インブンチェ》と重なる。人物は次から次へと仮面=顔を取り換え、アイデンティティの曖昧さが募っていく。物語全体が、出入り口を縫い付けられた袋状の迷宮と化す。そこは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森でもあるのだ。
老婆の手が「おれ」という包みをひっくり返し、口を塞ぐ。「おれ」は郷愁と共にここに閉じ込められる。「おれ」が内側から袋を破くと、たちまち老婆の手が傷口を縫い塞ぐ。ひと針、ひと針、丁寧に縫っていく。
ウンベルトだのヘロニモだのは、本当に存在していたのだろうか。極端な話、『夜のみだらな鳥』とは、すべてが《インブンチェ》が見た妄想に過ぎないのかもしれない。