青い花

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あなたの人生の物語

2018-02-16 07:11:59 | 日記
テッド・チャン著『あなたの人生の物語』

「バビロンの塔」「理解」「ゼロで割る」「あなたの人生の物語」「七十二文字」「人類科学の進化」「地獄とは神の不在なり」「顔の美醜について――ドキュメンタリー」の八つの中短編と巻末に「作品覚え書き」が収録されている。
テッド・チャンは寡作な作家で、この作品集に収められた中短編が1990年のデビューから2002年までに発表した作品のすべてである。その後も短編を何作か発表しているが、まとまった形での新刊はまだ出ていないようだ。
SFに限らず、長編に比べると中短編は読者の需要が少ない。そういった傾向を押して本作品集が出版されたことは、それだけテッド・チャンに寄せられる読者・出版関係者の期待が大きいということなのだろう。
数学・物理学を軸に宗教や哲学を盛り込んだ世界観は、論理的でありながらファンタジーの風味が強い。それも、世界がどうのとか宇宙がどうのといった壮大なテーマではなく、個人の心情に寄り添ったデリケートな作風である。ゴリゴリのSFが苦手な私にも、主人公たちの感情がスッと入り込んできた。

表題作の「あなたの人生の物語」は読みながら、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』を思い浮かべたものだったが、巻末の「作品覚え書き」の中で、その名が出てきたのには嬉しくなった。
作品としては、『スローターハウス5』同様に救いのある話ではない。運命が完全に決定された世界の中で、それでも落ち着きと勇気をもって生きていく人の物語だ。言語学や物理学の知識がない私には、なかなか手強い作品だったが、読み進めていくうちにタイトルの意味がしみじみと心に染みた。書評には「感動」と言う言葉が使われていたが、もっと多彩な感情を刺激される作品だ。子供のいる人なら、特に。

“光がある角度で水面に達し、異なった角度でそのなかを進むという現象を考えてみよう。屈折率のちがいが原因となって光は方向を変えるという言い方で説明すれば、それは人類の見方で世界を見ていることになる。光は目的地への旅程に要する時間を最小にするという言い方で説明すれば、それはヘプタポッドの見方で世界を見ていることになる。まったく異なる二とおりの解釈だ。”

言語学者のルイーズ・バンクス博士は、物理学者のゲーリー・ドネリー博士とともに、軍からエイリアンとのコンタクトを要請される。
四本脚で歩き回り、三本は腕として側方に巻き上げられた“それら”を、ゲーリーはヘプタポッド(七本脚)と呼んだ。ヘプタポッドは声道が根本的に人類の声道と異なる。また、人類の文字言語はどれも音声表示の範疇に入るのに対し、ヘプタポッドのそれは発話されたものとは何ら関係なく意味を伝える意味図示である。それを構成する諸要素は何か特定の音声と対応するわけでは無い。視覚的統語法とでも言うような、文と構成するそれ自体の規則をもっていて、その統語法は会話言語に適用される統語法とは関連性がない。

人類と全く異なるヘプタポッド(ルイーズは自分が担当する二体に、フラッパーとラズベリーと名付けた)の言語を習得するにつれて、ルイーズの世界観は人類とヘプタポッドの混合物になっていく。

“〈ヘプタポッドB〉を習得してのちの新たな記憶は、それぞれは数年単位の期間に相当する巨大なブロック群がばらばらと所定の場所に落ちてきたようなもので、順序だって到来したとか連続的に到着したとかではないものの、それらはすぐに五十年におよぶ期間の記憶を形成した。これは、わたしが〈ヘプタポッドB〉を、それでものを考えられるまでに習熟することを含む期間であり、フラッパーやラズベリーとの面談の最中にはじまって、わたしの死をもって終わる。”

〈ヘプタポッドB〉がルイーズの記憶に作用するようになってから、彼女は残りの人生を包含する期間で起こるあらゆる出来事をランダムに意識するようになる。その中には、25年で終わってしまう“あなたの人生”も含まれている。 “あなた”のおとうさんと数年で別れてしまうことも、“あなた”がどんなふうに死ぬのかも、彼女は既に知っている。それでも、愛を交わし、“あなた”をつくるのだ。


表題作以外も知力を試される作品ばかりで、分からない用語を調べながら読むのに結構な時間を要したが、その中では、「理解」と「顔の美醜について――ドキュメンタリー」の二作は解り易い部類で、SF初心者の私でもなんとかついていくことが出来た。


「理解」は、主人公が思いがけず特殊な能力を得る点が、「あなたの人生の物語」と共通する。そして、その能力が本人の幸福には寄与してくれない点も。
超人類どうしの対決は脳内に映像をイメージしやすくSF初心者向けであるが、その分、通好みな読者からの評価は低いかもしれない。
同じく、超知性・知性強化療法をテーマとしている「人類科学の進化」と続けて読むと面白いだろう。

事故で脳を損傷し昏睡状態に陥ったレオン・グレコは、ホルモンK療法によって、損傷した神経の再生に留まらず、天才的な知能を得た。
病院での臨床試験では、驚異的な成績を出した。知能の急速な発達によって、仕事の効率が飛躍的に上がり、それまで苦手だったことも容易にこなせるようになった。そればかりか、ピアニストや武術家の技能を、映像を見ただけで体得できるようになった。何を学習してもそのパターンが見て取れる。あらゆるものの中に、そのゲシュタルトが見えるのだ。レオンは万能感に浸されるようになる。

“わたしは腎臓機能、栄養吸収、腺分泌といった身体の動きを感知できる。思考過程のなかでさまざまな神経伝達物質がはたしている役割を意識することすらできる。この意識状態には、アドレナリンによって増強された状況をうわまわる強度の精神活動が含まれている。わたしの心の一部は、もしわたしがふつうの精神や肉体の持ち主であれば数分以内に死を迎える状態を維持できる。心のプログラミングを調整すれば、感情的反応や注意力の強化、あるいは態度の微妙な修正のひきがねとなるすべての物質の増減を感じとることができる。”

“わたしは究極のゲシュタルトに、そのなかではすべての知が調和して光を与えられるコンテクストに、マンダラに、天球の音楽に、コスモスに、迫りつつある。”

“わたしの求める悟りは、霊的なものではなく理性的なものだ。それにいたるにはまださきへ進まねばならないが、こんどはそのゴールがたえずわたしの指さきからしりぞいていくことにはならない。わが心の言語をもってすれば、おのれと悟りをへだてる距離は正確に計測できる。最終目的地が視野に入ったのだ。”

ホルモンK療法の被験者は、レオンだけではない。健康な志願者、脳卒中、アルツハイマー、昏睡など様々な状態の被験者がいた。
ホルモンKによる知能の向上は、最初の損傷の程度に依存する。健康な志願者に対してはホルモンの効果はなし。軽い卒中患者は天才レベルにも達せず、重い損傷を受けた患者の向上度ははるかに大きかった。最初に重度の昏睡状態にあった被験者の中で、三度目の注入を受けた者はレオンひとり。研究対象の誰よりも、多くの新しいシナプスを得ている。知能がどこまで高くなるかは、まだ答えの出ていない疑問なのだ。

レオンはFDA(食品医療品局)の非公開データベースに侵入し、ホルモンK被験者の住所及びFDAの内部情報を得た。そのなかで、CIAがレオンを捕獲して、潜在的脅威の程度を評価すべきだと主張していることを知る。
FDAはすべての病院に残存アンプルの返送を依頼していた。レオンはその前にアンプルを入手しなくてはならない。レオンは追っ手を躱しつつ、ホルモンK被験者たちからアンプルを回収していくことになる。

株式の動向をチェックするレオンのパソコンに、何者かがメッセージを送ってきた。
レオンのような人間がほかにもいる、三度目のホルモンK注入を受けた昏睡患者が。その人物は、レオンがFDAのデータベースにアクセスする前に自分のファイルを消去して、主治医の報告書に偽の情報をインプットした。
おそらく、彼はレオンより前にホルモンK治療を施されており、レオンよりも知能の進化――より優れた記憶、より速いパターン認識――が進んでいる。彼は味方なのか、敵なのか?重大な疑問だ。

レオンは美を愛し、レイノルズは人類を愛する。
薬物投与により超知性を得た元凡人が、知覚をぐんぐん向上させていく高揚感。自分の上を行く超知性の持ち主、それも超知性への認識がまるで違う人物に感じる恐怖と容認。そして、崩壊の受容。これまでも、これからも、私自身が経験することの無い感覚であるにも関わらず、ひどく生々しく“理解”することが出来た。


語り口が面白かったのは、「顔の美醜について――ドキュメンタリー」。
“カリー”という美醜失認処置の導入をめぐる賛成派・反対派の応酬をドキュメンタリー番組のタッチで描いている。

ペンブルトン大学では、根深い社会問題であるルッキズム、すなわち容貌差別の解決に向けて、新入生の在学中、これまでは任意に利用していた美醜失認処置(カリーアグノシア)を必要条件にすることが学生会議の議案として提出された。
神経学者のジョゼフ・ガードナーによると、“カリー”とは、統覚的失認というよりも、連想的失認に近いらしい。個人の視覚に干渉するわけでは無く、見たものを認識する能力に干渉する。脳内にある容貌の評価を専門とする神経経路を薬剤によって閉鎖することで、“カリー”は実現する。

学生、保護者、神経学者、宗教学者、人権活動家と様々な立場の人々が喧々諤々する。そこにメディア・コントロールまで絡んでくる。この作品集の中ではちょっと異色な、軽快で賑々しい作品だった。

ルッキズムについて真剣に語れば語るほど、滑稽味が増してしまうのはなぜなのだろう。それは、人種差別や性差別などの議論ではあまり感じることの無い感覚だ。
肉体的な美醜は、人の一生を決める最も大きな要素である。ゆえに、ルッキズムは究極の差別問題と言っても過言でない。恋愛、結婚、就職、昇進はもとより、同性間の友情、親が子に向ける愛情ですら外貌の良し悪しに左右される。不美人であることのハンディは計り知れない。
その反面として、美人薄命なんて言葉が表すように、美が齎す不幸というものもある。しかし、美とはその欠点までもが人を魅了するのだ。美男美女の悲劇には多くの人が涙するが、不細工が同じ目に遭っても人の興味をひかない、下手したら嗤い者になるのはそういうことだ。
親の意志で18歳まで“カリー”を続けていた新入生のタメラ・ライアンズが言うように、美男美女を表現するのに使われる言葉には、「charm」「glamour」「enchanting」「spellbinding」など魔法に関係しているものが多い。肉体の美から放射される強烈な魅力の前では、精神や知性、魂への称賛など、頭づくりの屁理屈に過ぎない。そんな目に見えないものの価値を、外貌に惑わされずに瞬時に判定できるほどの見識を持っている人がどれだけいるのだろうか。
人は生きている限り(死後も?)、肉体的な美醜を評価され続ける。それでも、私は“カリー”を選択する気にはならない。残念ながら私自身は美の保有者ではないので、ルッキズムに関しては嫌な思いをすることもある。だけど、予期せずに本当の美形を見た時の、あのハッとするような感動は失いたくない。その瞬間を味わえる限り、自分自身の外貌の醜さゆえにこうむる様々な不利益を耐えることが出来ると思うのだ。
そういう訳で、SEE(徹底的平等を求める学生会議)議長のマリア・ディスーザが提案する“カリー”の有効化と無効化の切り替えについては、まったく魅力を感じない。美の鑑賞が、見る者と見られる者の双方の合意の上の交流になってしまったら、呪文を掛けられたような瞬間は失われてしまうからだ。
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