青い花

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ナペルス枢機卿

2019-08-08 09:36:37 | 日記
マイリンク著『ナペルス枢機卿』には、ボルヘスによる序文と、「J・Hオーベライト、時間-蛭を訪ねる」「ナペルス枢機卿」「月の四兄弟」の3編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の12巻目にあたる。私にとっては20冊目の“バベルの図書館”の作品である。

“私たちがなしとげる行為には、それがいかなるものにもあれ、魔術的な、二重の意味があるのだ、と。私たちには、魔術的でないことは、何ひとつできない。”「ナペルス枢機卿」

“われわれが思うままにいつでも自分の肉体を他者の肉体と交換することができ、人びとのあいだにあっては人間の形で、図式のあいだでは影として、思想のあいだではイデーとして現象することができ、これをあの秘密の力を借りで夢のなかでかりそめにえらんだ玩具のようにわれわれの形を放棄することができさえしたら”「月の四兄弟」


マイリンクを読むのは、多分、中学生の頃に『ゴーレム』と『西の窓の天使』を読んだきりだと思う。他にも読んだかもしれないが、ユダヤ文化にもオカルトにも疎い当時の(今もだ)私には作品のテーマがよく分からなかった。ただ、作品の意図が分からないにも関わらず、マジョリティの枠から外れた人だけがもつ奇妙な優しさと、あらゆる種類の情熱の欠如は感じていた。それが、当時の私には心地良かった。

付録の種村季弘の解説によると、最初にマイリンクの原稿を読んだ「ジンブリツィシズム」副編集長は、てっきり狂人の書いたものと思いこんだのだそうだ。
マイリンクは、20歳そこそこでプラハの銀行の共同設立者の一人となり、いくつかのオカルト結社と関係している。
母親はユダヤ系の喜劇女優。父親は貴族で、ヴュルテンベルク大公国の大臣。私生児である。母の血、父の血、どちらをとっても市民階級から外れたアウトサイダーである。マイリンクが社会の中間層を描くことがなかったのは、この出自ゆえだろう。種村季弘はマイリンクの作品について、“反俗性、もしくはニーチェ的な意味での非時代性。貴族的高踏的反俗性とユダヤ人的道化的反俗性とがドイツ俗物をサンドウィッチのハムのように挟撃している構図”と評している。
孤高の貴族が住まう城館、薄汚い小店のひしめく路地、カルト教団の僧院、ユダヤ人の押し込められたゲットー。マイリンクの作品の舞台は、いつもそんな社会の中庸から外れた空間だ。

『ゴーレム』は、19世紀プラハのゲットーを舞台としている。
ゴーレムとは、ユダヤ教のラビが作った動く泥人形のことだ。しかし、この作品には、伝説通りの泥人形は登場しない。
過去の記憶を持たない男が、ゲットーの一室で目覚める。帽子の裏に記された名前から、彼は自分がペルナートという名前だと知る。ペルナートは知人たちからゴーレムの伝説を聞かされる。ゴーレムは33年おきにこの町に姿を現す。今年は、前回ゴーレムが現われてから33年目の年だ。
薄汚れた建造物がひしめく石畳の町の下には、迷宮の様な地下水路が広がっている。地下水路を辿れば、シナゴーグの入り口が現れる。そこには、かつてラビが自ら作り上げたゴーレムを幽閉した部屋がある。蜘蛛の巣のように張り巡らされた伏線を辿っていくうちに、読者の意識の中で、ペルナートと、33年ごとに現われる特徴の無い、それでいて見覚えのある男、つまりはゴーレムとが重なってゆく。

意外なことに、と言っては失礼かもしれないが、『ゴーレム』は、第一次世界大戦中に空前のヒットを飛ばしたのだそうだ。『ゴーレム』の何が、当時の人々の心を掴んだのか、そして中学時代の私の心を掴んだのかはよく分からない。多分、その何かは、どんな即物的な人の心の中にも必ずある神秘的な場所に響いたのだろう。

マイリンクの作品の下地となるカバラについては、本書のボルヘスの解説の中で少し触れられている。

“幾世紀にもわたってヨーロッパでは、選ばれた民は多かれ少なかれ忌避された地区に閉じ込められてきたが、そこはまた、逆説的に、ユダヤ文化の魔術的な温床でもあった。そういう所で、憂鬱な環境と、同時に、野生的な神学が胚胎されたのである。(略)秘密の口碑伝承に帰せられているカバラは、神の資質と、文字の持つ魔術的な知から、そして創造主がアダムを想像したように、奥義に通じた者だけがもつ、人間を想像しうる可能性、といったことをめぐるその特異な思弁にふさわしい場を、ゲットーに発見した。その小型人造人間がゴーレムと呼ばれるものであるが、これは、アダムが粘土という意味であるのと同様に、ヘブライ語で土くれを意味している。”

マイリンクは、カバラの知識を創作に活用した。ボルヘスによれば、そこから生み出されたのは、“別の夢によって夢みられた夢、別の悪夢の中心に消えていった悪夢”だ。
本書に収められたマイリンク初期の3編は、『ゴーレム』を予兆している。私もそれらから『ゴーレム』の気配を感じた。というよりは頁を繰るごとに殆ど忘れていた『ゴーレム』の記憶をいくらか取り戻すことが出来た。
SFとして描くことも可能だったこれらの作品を、マイリンクは魔術の物語として描いた。父の所属する貴族階級にも母の所属する道化的集団にも帰属せず、中産階級とはあらかじめ無縁だったマイリンクは、魔術の力で何処に到達しようとしたのか。

“科学のなかに幻想的なものの可能性を探求した同時代の若いウェルズとは違って、グスタフ・マイリンクは、魔術のなかに、一切の機械仕掛けを超えたところに、その可能性を求めた。”

マイリンクは、私達が存在する可視の世界は、絶えず不可視の世界に侵食されているという観念に基づいて、物語世界を構築していたようだ。我々は無意識のうちに、常に視えざる何かからの干渉を受け、変容を続けているのだろうか。その恐れから生まれたのがマイリンクの魔術なのだろうか。


「J・Hオーベライト、時間-蛭を訪ねる」は、祖父の墓碑に記された謎の文字に心惹かれた語り手が、祖父の友人だったオーベライト訪ね、その意味を訊く話。

“『私は生きている』と『私は存在している』の間には、雲泥の差があるのです。”

私は幼い頃、祖父の墓碑に「Ⅴivo」という文字が刻み込まれているのを見た。
「Ⅴivo」とは、「余ハ生キテイル」という意味らしい。何故、死者の眠る墓にそのような不似合いな文字が刻まれているのか。その疑問を、私は「Ⅴivo」という言葉とともに心の奥処に刻み込みこんだ。

年老いた私は、我が家の相続物を整理している最中に、祖父の遺した一束の手記を見つけた。手記の束が挟まっていた紙入れの表紙には、奇妙な文字が刻まれていた。

「人ハイカニ死ヲノガレヨウトスルコトカ、期待モ希望モセズニ」

その瞬間、私の心の中に、あの「Ⅴivo」という文字が炎のように立ち上った。私は手記を読み進めていくうちに、祖父が「フィラデルフィア兄弟会」という神秘主義団体の会員だったことと、そこで、ヨーハン・ヘルマン・オーベライトという人物と知り合ったことを知る。このオーベライトなる人物が、「Ⅴivo」と祖父の言葉の謎を説く手がかりとなるかもしれない。私は、当時オーベライトが住んでいたルンケル行を決意する。
ルンケルで探し当てたオーベライトは、祖父の友人だったはずなのに、私とそれほど変わりの無い年齢に見えた。彼はこの町で、自分の孫として生活していた。間もなく私たちは厚い友情を結んだ。私は、オーベライトから『時間-蛭』の体験を聞くことになる。

祖父とオーベライトは、人々が人生と称するものを、願望とか希望とか期待とかを、『時間-蛭』と読んでいた。それというのもそいつは、蛭が血を吸うように、時間を、生命の真の漿液を、我々の心臓から飲みとってしまうからだ。祖父がオーベライトに伝えた道とは、“死に凱歌を上げ、希望という蝮をふみにじる道”なのだった。

肉体から抜け出すことに成功したオーベライトは、不可解な生き物たちがひしめく地に辿り着く。それは、現実の世界のように見えて、実はその照り返しに過ぎない国土、現実の世界に住む人々の生命力を喰い尽し、自らは怪物的に成長した幽霊的な分身の国なのだった。オーベライトはそこで、彼自身や知り合いたちの分身の肥大した姿を目撃する。人々の数知れぬ挫折した希望と、生命と時間を喰い尽す吸血鬼、彼等自身のデーモンじみた自我、それが、分身の国にひしめく怪物たちの正体だった。

“私が生を享けてからこの方、あいつが――私自身の分身が――ここで飲めや歌えの贅沢三昧にふけっていたのだと思うと、そしてまた自分の魂からわれとわが自我の魔術力を、希望し、待ち焦がれ、期待するのに垂れ流し、そうすることでまた奴を存在へと喚びだしてこの富を贈与したのが自分なのだと思うと、名状しがたい憎悪の感情がこみあげてきました。
愕然として私はさとったのです。自分の全生涯がなんらかの形でもっぱら待つことから、待つことのみから――一種のとめどない流血から――成り立っていたのであり、現在を甘受するのにのこされている余地は時間の総計にしてほとんど何時間もありはしなかったのだ、と。”

人生とは死の待合室であり、肉体とは物質であるかのように見えて、死に向かって流れ去っていった時間以外の何物でもない。『私は生きている』から『私は存在している』の境地に到達するには、寄生者どもの餌となる『希望すること』を、我々の生から根絶やしにして己を虚無にしてしまう以外に他は無いのだ。

おそらく、マイリンクはオーベライトに語らせたこの説を本気で信じていたのだろう。その一方で、それの実現が現実的ではないとも考えていた。何故なら希望を持たないということもまた、希望の一つに過ぎないからだ。
多くの人々にとって人生とは、期待と希望の随伴現象の元、蛭のような分身に搾取されながら墓に向かって流れていく時間でしかない。オカルティストありながら、オカルト的超自然に対して懐疑的であったマイリンクは、貴族でも卑民でもあり得なかったように、現実にも超自然にも決定的に加担することができない。彼が行き着いた先が何だったのか、今回も分からないままだった。
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