青い花

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友だちの友だち

2019-08-19 09:03:17 | 日記
H・ジェイムズ著『友だちの友だち』には、ボルヘスによる序文と「私的生活」「オウエン・ウィングレイヴの悲劇」「友だちの友だち」「ノースモア卿夫妻の転落」の四編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の14巻目にあたる。私にとっては21冊目の“バベルの図書館”の作品である。

H・ジェイムズは『鳩の翼』を途中で挫折してからずっと避けていた作家で、“バベルの図書館”のシリーズの中に彼の名前を見つけた時には、思いがけないところで苦手な親戚のおじさんに出くわしてしまったような当惑を覚えたものだった。
で、本書を読んでも、私の中でH・ジェイムズ作品への意識が改善することはなかった。短編集なので、『鳩の翼』よりはストレスは少なかったが、つっかえつっかえな読み進め方で、読了までに信じられないくらい時間がかかった。
というのも、H・ジェイムズ作品の登場人物は、とんでもなくよく喋るので。それどころか、登場人物が何も話していない時でさえ、絶え間なく喋りかけられているような煩わしさを感じさせるので。その辺の生々しい筆致は、誰もが真似出来る芸当ではないので、尊敬はしている。

付録の大津栄一郎による『生身の巨匠ヘンリー・ジェイムズ』は、なかなか面白かった。

H・ジェイムズは、「巨匠」とか「文豪」とかいう表現にかなり複雑な感情を抱いていたらしい。彼の作品の中でこの種の称号で呼ばれる人物は、たいてい偉そうな俗物として描かれている。
ところが、作家としてのキャリアを積んでいく中で、H・ジェイムズ自身が巨匠と呼ばれるようになってしまった。H・ジェイムズは、どんな巨匠ぶりを見せたのか。『生身の巨匠ヘンリー・ジェイムズ』では、そのエピソードがいくつか記されているが、これが思いがけなくしみじみとさせられる内容だった。

ジョーゼフ・コンラッドを訪ねた時に、四歳の子供にその滑稽な気どりぶりを「優雅な雄鶏」と表現されてしまったH・ジェイムズ。
トーマス・ハーディに「ひっきりなしにしゃべりながらなにもしゃべらぬ」特技の持ち主と虚仮にされたH・ジェイムズ。
ヒュー・ウォールポールに「緑やピンクの紙テープでも吐き出すように、口から際限なく多彩な言葉を吐きつづける蠟人形を想像してもらえばいい」と揶揄されたH・ジェイムズ。
あまりに大げさで、あまりにフォーマルで、滑稽な、生真面目で、堅苦しい、模範的なヴィクトリア朝紳士。そして、つっかえつっかえ同じ言葉を繰り返しながら、延々と喋り、しかも凝った表現のために相手に真意が伝わらない話術の持ち主。それが、H・ジェイムズなのである。

ヒュー・ウォールポールに言わせると「よく人がまねる(だがたいてい巧くいかぬ)彼の込み入った複雑な文章は、ジェイムズが自分の頭のなかにあるものは言葉では十分に表現できないと思っているからなのだ。そのためまた、苦心惨憺したあげく、彼の言うことはときどき結局つまらぬ、ありふれたことになってしまう。自分にとって大事な宝をどうしても巧く表現できないので、絶望して、どうせ代用品だからとどんな表現でもあきらめて受け入れたといった工合なのだ」そうだ。
ヒュー・ウォールポールの見立てが正解だとすれば、H・ジェイムズの、あのどんな些細なことでも、多彩な言葉を用いて完璧な文章で表現せずにはいられない言語マシーンの様な創作スタイルの底には、意外にも言葉に対する絶望があったらしい。

H・ジェイムズは、読者から作品についてよく分からないと言われるのが随分堪えたそうだ。その手の質問に対して、H・ジェイムズは、冗談で紛らすことも出来ず、大変困惑した顔をしたのだそうだ。
まさに私が途中で放り出してしまった『鳩の翼』への質問に対しては、「あれだけ努力してなお伝えられない意味をどうして口先の言葉で伝えられますか」と答えたらしい。
そんなエピソードを読んでいくうちに、私は、H・ジェイムズに対して、申し訳なさとある種の愛情の様なものを抱いたものだった。
大津栄一郎は、「いつも過剰に反応し、過剰に想像し、女性を前にすると当惑し、自分に自信を持てぬ巨匠だったといえよう。そうなると、せんさく好きで、絶えず場違いなところに出しゃばり、迷惑がられたり、からかわれたりしているいくつかの作品の主人公はジェイムズの自画像ということになる。」と纏めている。


「オウエン・ウィングレイヴの悲劇」は、陸軍士官塾の教師スペンサー・コイルが、彼の最も優秀な生徒であるオウエン・ウィングレイヴから、軍人を軽蔑しているので、士官学校には進学しないと宣告されるところから始まる。

ウィングレイヴ家は、先祖代々軍人の家系だ。平和主義的な生き方など許されるはずがない。
オウエンの変節に狼狽えたコイルは、オウエンの伯母ミス・ウィングレイヴに相談するが、案の定、一族の男に軍人以外の生き方を認めない彼女は、説得のためにオウエンをウィングレイヴ一族の屋敷パラモアに連れ帰ってしまう。
一族の子息の中で最も優秀なオウエンは、期待の大きさの反動から、家長である祖父サー・フィリップや後見人のミス・ウィングレイヴから苛烈な叱責を受け、婚約者のケイト・ジュリアンからは顔を合わすたびに侮蔑と苛立ちをぶつけられる。しかし、皮肉なことに誰よりも軍人的な勇敢な魂の持ち主であるオウエンは、そんなことではめげない。遂には経済的に締め付けられることとなってしまう。

オウエンを心配したコイルは、妻とオウエンの級友レッチミアと共にパラモアを訪れる。そこで、コイルは、パラモアに纏わる奇妙な話を聞かされる。
この屋敷には古い亡霊たちが住み着いていて、ウィングレイヴ家の人々は彼らを〈内輪の家族〉と呼んでいる。彼らは一種永遠の存在で、遠い昔にまで及んでいて、この家の住人に判定を下すのだという。

話は、ウィングレイヴ家で起きた殺人にまで及ぶ。
ジョージ二世の頃、オウエンの祖先のウィングレイヴ大佐は、自分の子供の一人を激怒のあまり殴り殺してしまった。子供は丁度オウエンくらいの年頃だった。事件は内密にされ、別の死因をたてて葬式は執り行われた。しかし、その翌朝、大佐はパラモアの一室で謎の死を遂げたのだった。遺体が発見された部屋は、今でも幽霊が出るという。もう長いこと、その部屋で寝たものは誰もいない。
ケイト・ジュリアンは、レッチミアを利用してオウエンを焚きつけ、彼がその部屋で寝るように仕向けるのだが――。


この物語は、『オーウェン・ウィングレイヴ』というタイトルで歌劇化されている。
“手入れの行き届かないジェイムズ一世時代の家のたたずまい、荒廃していかにも「うす気味悪い」感じがする、しかし依然として風格にみち、今や静かな余生を送る年老いた武人のなおかつ威厳ある姿の背景として、まさにふさわしいその館”を舞台とした幽霊譚は、なるほど舞台映えがするかもしれない。
そこに住む人々――忘れ去られた古い戦士を感じさせるサー・フィリップ、高貴と厳格が一周廻って俗悪な印象を与えるミス・ウィングレイヴ、訳ありの居候ジュリアン母娘。それから、館の階段に飾られた先祖代々の肖像画と奇妙な呟き声、館に住み着いている幽霊の気配などもまた。


「ノースモア卿夫妻の転落」は、長い年月をかけて密やかに準備の進められた復讐の物語。H・ジェイムズの短編の代表作と目される作品で、本書収録の4編のなかでは最も読み易かった。

政界の大物ノースモア卿が死んだ。成功することが職業とも表現された彼の葬儀は、その生涯にふさわしい華やかなものだった。
それから程なくして、ノースモア卿の旧友ウォレン・ホープも病死した。
ウォレン・ホープの人生は、控えめな性格故にノースモア卿に利用されてばかりで、何も残すことなく終わってしまった。ウォレンの死は、世間の注目を集めることなく、知人たちからも速やかに忘れ去られる。
ジョン・ノースモアは不朽で、ウォレン・ホープはお終いなのか――遺されたホープ夫人は夫の遺品を整理しながら、世の理不尽と人々の不人情に暗澹たる思いを抱く。

ノースモア卿の偉業を記念して、卿の書簡集の出版企画が持ち上がった。
ノースモア夫人は、亡き夫の友人知人に夫の手紙を保管していないかと問い合わせる。ホープ夫人もその中の一人だった。ホープ夫人は、ノースモア夫人の傲慢な態度に複雑な思いを抱きつつも、夫が遺していた卿からの手紙を提供することにした。

大々的な広告を打って、ノースモア卿の書簡集が出版された。
しかし、評論家や世間の人々の反応は意外なものだった。この時からノースモア卿夫妻の一切の権威は失墜した。
ホープ夫人は、卿の書簡集の出版こそが、亡き夫が忍耐強く準備してきた復讐だったことを知った。ウォレン・ホープは、妻が思っているような恬淡な人物ではなかった。ウォレンは、ノースモア卿夫妻の人間性を誰よりもよく知っていた。卿亡きあと、夫人や卿の追従者たちが何を思い立つのかも、自分の死が人々から顧みられることの無い事までも、すべてお見通しだったのだ。


教養深く、物静かで、無欲そうに見えた男が、長年連れ添った妻にすら気付かせることの無かったもう一つの顔。
自らの病身を押してノースモア卿の葬儀に出席した時、ウォレン・ホープの心にあったものは何だったのだろう。恐ろしく巧妙で残酷な復讐者は、復讐を成し遂げたのちまでも対象者たちに本性を気取られることはなかった。もっとも、ウォレン・ホープの本性に気づけるほどの繊細な神経の持ち主だったら、彼を怒らせるような真似はしなかっただろうけど。H・ジェイムズの短編の代表作と評されるだけのことはある、心理小説の傑作だ。
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