青い花

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死体展覧会

2020-01-16 07:46:35 | 日記
ハサン・ブラーシム著『死体展覧会』には、「死体展覧会」「コンパスと人殺し」「グリーンゾーンのウサギ」「軍の機関紙」「クロスワード」「穴」「自由広場の狂人」「イラク人キリスト」「アラビアン・ナイフ」「作曲家」「ヤギの歌」「記録と現実」「あの不吉な微笑」「カルロス・フエンテスの悪夢」の14の短編が収録されている。

アラビア語圏の小説を読むのは初めてだ。
ブラーシムは、1973年にバクダッドで生まれ、少年時代をバクダッドの北方に位置するキルクークで過ごした。キルクークは主にクルド人とトルクメン人の住む都市で、本書収録の短編にはクルド人が登場する作品がいくつかある。油田を抱えるこの地では、サダム・フセイン率いるバアス党のアラブ化政策によって、1980年代以降紛争が絶えない。フセイン亡き後も、石油利権の絡む深刻な宗派・民族間の対立が続いている。

訳者あとがきによると、バクダッドで映像作家として活動していたブラーシムは、政府から圧力を受けたため、1990年代にバグダッドを離れ、クルド人地域に戻り、偽名で映像作品制作に取り組んだ。2000年にイラクを出国し、イラン→トルコ→ブルガリアと渡り、2004年にフィンランドに到着した。2016年にはフィンランドの市民権を得ている。
その後は、テレビ局向けにドキュメンタリーを制作する傍ら、アラビア語での創作を続けた。2009年にイギリスで英語版の『自由広場の狂人』が出版されたが、アラビア語版の出版はかなり遅れ、検閲版『自由広場の狂人』が、2012年にレバノンの出版社から刊行されるも、ヨルダンではすぐに発禁処分になった。

ブラーシム自身が分析する通り、暴力を直截的に描くのが彼の作風だ。
これは、作品の舞台であるイラクを支配しているのが暴力であるという事態を表している。あえてだと思うが、暴力の背景にあるはずの政治的、宗教的な信条については、意外なほど描写が少ない。
ブラーシムは、イラクに蔓延する暴力に、解決策や希望を見出そうという描き方はしていない。逆に、暴力を凝縮して見せることで、その非人間性を浮き彫りにする。それが読者の心を抉る。
ブラーシム作品の暴力は、唐突で理不尽で執拗だ。
しかし、彼は暴力を礼賛しているのでも、暴力を描くことを愉しんでいるのでもない。彼の作品には、屈折した倫理が貫かれている。登場人物を容赦なく襲い、彼等の人生を無慈悲に破壊する暴力を研ぎ澄ますように描き出すことで、恐怖政治や戦争に襲われた人々の心の傷を探求しようとする。その先にあるのは、人間の尊厳とは何かという問いかけだ。

そして、暴力を描くのに、SF的な要素や暴力的・寓話的な要素を多く用いることも彼の特徴である。
「穴」の、主人公が時空の歪んだ穴に落ちるというタイムトラベル的な設定、「アラビアン・ナイフ」の、ナイフを消したり出したりできる超能力、「グリーンゾーンのウサギ」の、何かを暗喩するような非現実的な存在のウサギ、等々。


「死体展覧会」

人を殺し、その死体をいかに芸術的に市街に展示するかを追求する団体。
あくまで架空の団体であるが、その下敷きになっているのは、イラクでの暴力で命を落とし、晒し者とされてきた数多の人々の、すべての価値や尊厳を剥奪された死体群だ。

物語は団体の幹部〈彼〉が、エージェント契約を交わす予定の研修生〈私〉に仕事の流れと心構えを説く場面から始まる。
「我々は狂信的なイスラーム集団ではないし、非道な政府の手先でもない」と言う〈彼〉の言葉は、いっそ純粋と言えるまでに人間性が欠落した理論に貫かれている。〈彼〉は、エージェントが陳腐な人道的感情に流されることを許さない。
〈私〉が馬鹿か天才のどちらなのかを心配する〈彼〉は、団体を愚弄しようとした馬鹿についてのちょっとした話を紹介する。

その馬鹿――〈釘〉というコードネームのエージェントは、他人を殺して何の利があるのかと疑問を抱き、遺体安置所(テロや無差別殺人が生んだ死体で常に満杯なのだ)から盗んだ死体を使って作品を仕上げようと考えた。目論見を察知され、捕らえられた〈釘〉が受けた恐ろしい制裁とは。


「軍の機関紙」

戦死した兵士の創作ノートを盗み、自分の作品として発表して国民的大作家となった男。
名声が絶頂を迎えたころ、男の元に死んだはずの兵士から、イナゴのように大量の原稿が毎朝送られて来るようになる。
今日は百篇、明日は二百編……。日を追うごとに嵩の増す原稿は、保存のために密かに借りた倉庫の容量を超え、男の精神を削っていく。

追い詰められた男は、兵士を見つけ出すべく、猛烈な勢いであちこちに連絡を取った。
しかし、すべての返信が、件の兵士は戦死したことを裏付けていたのだ。男はついには、兵士の墓を掘り返すが、そこには兵士の母親の証言通り、額に穴が開いた腐乱死体があった。兵士は確かに死んでいたのだ。
その後も兵士の名前で各地の前線から送られ続ける原稿は、さらに素晴らしく独創的になっていく。男は身震いし、この原稿の洪水が止まらなければ身の破滅は近いと思うのだった。


「穴」

〈僕〉は、店の倉庫を襲い、酒と食料を詰め込んだ袋を抱えて逃走中に、公園近くの穴に落ちた。
穴の中で〈僕〉は、老人に話しかけられる。老人が蝋燭をつけると、古い兵士のような格好の死体が見えた。老人が言うには、その死体は、ソ連とフィンランドが戦った冬戦争(1939年11月30日―1940年3月13日)の頃に穴に落ちたロシア兵なのだ。

老人は自分の正体はジン(イスラームの精霊・魔神)だと言い、ロシア兵の死体を食べながら奇妙な話を続ける。
ロシア兵は、この穴では死んでいるが別の穴では違う。老人は、アッパーズ朝(750-1158年)のバグダッドで、教師にして作家、発明家だった。家の近くで、自分の外衣に足を取られ、穴に落ちたのだ。
老人が教えてくれたのは、穴を訪れる者はみな過去・現在・未来の出来事を知る方法を会得するということや、このゲームの開発者たちが参考にしたのは、偶然を理解する一連の実験だったということだった。しかし、ゲームは彼らの制御から暴走してしまい、止まることなく時の曲線を転がり続けているらしい。

我々が何でこんなゲームに参加させられているのかと言えば、科学者たちが記憶の実験を続けているからだ。
このゲームにおいては、記憶が勝利の決め手になるのか?それとも、我々はただ楽しめばいいのか?ここに落ちてくる者はみな、食べ物になるか、本能を満足させる材料になるか、ほかの組織のためのエネルギーとなる。我々は何者なのか?


「アラビアン・ナイフ」

サッカーの審判ジャアファル、選手のアッラウィー、子供のころにジャアファルのサッカーチームに入っていた〈僕〉、肉屋のサーリフには、ナイフを消すという能力がある。ジャアファルの妹で〈僕〉の妻スアードは、消えたナイフを取り戻すことが出来るが、消すことはできない。

ジャアファルは、クウェート戦争に送られ、帰って来た時には両脚を失っていた。
だが、彼のサッカーにかける情熱は本物だった。彼は少年サッカー試合を開催しては審判を務めたり、才能のある少年を見つけ出しては選手として育てたりした。それらの費用や生活費を稼ぐのに、彼はポルノ雑誌の販売をしていた。ポルノは禁止されていたが、販路をうまく隠し、裕福な地区だけで売りさばいていたのだ。

“ナイフはジハードのため、裏切りのため、拷問と恐怖のための道具だ。剣と血。砂漠の戦いと未来の戦いの象徴。神の名を押印された勝利の御旗と、戦争のナイフ。”

ジャアファルは、突如として消息不明になった。
日々はゆっくりと、悲しく、惨めに過ぎていった。〈僕〉たちはみな、苦痛によって同じように作られた顔になった。仲間たちは、もう集まることも話し合うことも無かった。アッラウィーは首都から出て行った。

ある冬の朝、ハッサーンと名乗る若者によって、〈僕〉は、ジャアファルに何があったのかを知らされた。
治安部隊の手で、テロリストの巣窟から何人かの人質が解放された。ハッサーンはその中の一人だった。人質が拘束されていた首都のはずれの農家で、彼はジャアファルが残忍な拷問を受けているのを見たと言う。

テロリストたちは、既に両脚を切断されているジャアファルの両腕を斬り落すことにした。
人質たちは、両腕を切断する一部始終に立ち会わされた。
テロリストたちがジャアファルに近づくたびに、彼らの手にした刃物が消えた。テロリストたちは、ジャアファルを悪魔と呼ぶと、彼の服を剥ぎ取り、壁に磔にした。そして、両掌に釘を打ち込まれ、苦痛で身を捩るジャアファルの両腕を、銃弾で切断したのだ。
ナイフを消す能力は、ジャアファルを助けなかった。彼の死体は、ガソリンを撒かれ、燃やされた。


私の好きな作家は、殆どが故人か、かなり年上かなのだが、このブラーシムはほぼ同年代である。
彼の描く、血も涙も枯れ果てるような凄惨な物語群を読んだ後では、自分の人生の不如意があまりにもチンケで、しょうもないことで悩めるのが平和の証のように感じてしまう。
我々の日常では、レストランで食事中に体に爆弾ベルトを巻かれて自爆を強要されたり、仕事帰りに電気ドリルで体を穴だらけにされてから首を斬り落されたりすることなどは無い。あったとしても、それは既に事件という名の極めて稀な非日常である。
同じ時代のイラクでは、誰もが日常的に暴力と殺戮に晒されながら生きている。
「死体展覧会」のエージェントが、宗教や政治的信条とは何の関係もなく、素材となる人間を選んでいるように、かの地では暴力は犠牲となる者を選別しない。善人も悪人も等しく、理不尽に虐殺される可能性の中で日々を暮らしている。
現実と幻想がシームレスな作風は、私の大好きな南米文学に近いものがあって、大変面白かった。が、面白いだけでは済まされない残酷な背景がある。同じ時代の、全く異なる環境に生きる作家の、書かれる必然性のある物語を今後も追い続けたいと思った。
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