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青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

時間飛行士へのささやかな贈物

2021-01-18 08:41:18 | 日記
フィリップ・K・ディック著は『時間飛行士へのささやかな贈物』は、ディック傑作集の2巻目にあたる。P・K・ディックの初期の短編を集めた作品集だ。
収録されているのは、「父さんに似たもの」「アフター・サーヴィス」「自動工場」「人間らしさ」「ベニー・セモリがいなかったら」「おお!ブローベルとなりて」「父祖の信仰」「電気蟻」「時間飛行士へのささやかな贈物」の9つの短編と、巻末の「著者による追想」。

私は、SF小説とは縁が薄い。これまでの人生で読んだ本の中でSFが占める割合は、多分0.01%にも満たない。そして、その割合は生涯増える気がしない。
P・K・ディックの作品も『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と『高い城の男』くらいしか読んだ記憶がない。
『マイノリティ・リポート』とか『トータル・リコール』とか、P・K・ディック原作の映像作品はいくつか観てきたが、なぜか原作を読もうという気が起きなかった。『ブレードランナー』くらいだろうか、映画を見てから原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだのは。『高い城の男』は、原作を読んで面白いとは思ったけど、ドラマは観たいとは思わなかった。
『時間飛行士へのささやかな贈物』の収録作のいくつかもドラマ化されているそうだが、何となく観る気になれないでいる。

私の脳は多分、SF的ロジックとはあまり相性が良くないのだと思う。
でも、SFは私が馴染みとしているホラーとか幻想文学のジャンルと親和性が高い気がするので、私の意識の中で何かが突き抜ければ、その面白さが分かる気もする。

この本を読む数ヶ月前に、テッド・チャンの『息吹』を読んだ。
テッド・チャンは、私としては例外的に好みのSF作家なのだが、『息吹』収録のテッド・チャン自身による作品ノートに、本書収録の「電気蟻」と「時間飛行士へのささやかな贈物」についての記述があった。それが、このSFの古典的作品集を読もうと思った動機である。
本書の収録作は、50年代から60年代にかけて執筆された作品ばかりなので、近未来を舞台にしているのに、妙にレトロな印象を受ける。そこがちょっと面白かったりする。

「父さんに似たもの」は、子供の頃に読んだホラー漫画に、同じシチュエーションの作品がいくつかあったので、比較的取っつき易かった。子供たちだけで怪物と戦うという設定も懐かしい匂いがする。

身近な人間の中身がいつの間にか変わっているかもしれない―――子供時代にそういう妄想を抱く人は多いのだろうか。
私などは、妄想ではなく願望として、自分の親の中身がいつの間にか他の誰かと変わっていたら良いのになぁと、日々考えながら暮らしていたものだけど。
それはさておき、この物語の〈父さんに似たもの〉は、もとの父さんより嫌な奴になっているし、ほっとくと自分も中身を喰われてガワを乗っ取られてしまうので、退治するよりほかの選択肢はないのだ。

9歳のチャールズ・ウォルトンは、ある日、父さんがガレージで誰かと話しているのを見かける。その後、キッチンに入ってきた父さんは、何だか変な感じがした。これは、父さんではなく、〈父さんに似たもの〉なのではないか?

ガレージを探索すると、チャールズの疑念を裏付ける証拠の物が出てきた。
〈父さんに似たもの〉は、それを樽の一番奥に隠していた。母さんが燃やすつもりでため込んだガラクタの中に、本物の父さんの残骸が押し込まれていたのだ。

チャールズが〈父さんに似たもの〉に気づいたことは、たちまち、〈父さんに似たもの〉に知られてしまう。チャールズは、〈父さんに似たもの〉の魔手から逃走する。
このあたりの地理については、〈父さんに似たもの〉だって、父さんの中身を食べたときに、たくさんの知識を仕入れていることだろう。だが、裏道にかけては子供の方が上だ。
チャールズは民家の庭や裏の小道を駆け抜け、トニー・ベレッティの家に辿り着く。
トニーは14歳、大柄な乱暴者だ。チャールズは、話だけでは半信半疑なトニーを連れて家に引き返す。

二人がリビングルームの窓を覗くと、そこにいたのは〈父さんに似たもの〉。
そいつは、暫く母さんと話し込んでいたが、母さんが部屋から出ていった途端、椅子の中でしぼみ始め、ぐにゃぐにゃなり、口がだらしなく開き、目は虚ろ、人形みたいにがっくりと頭を垂れたのだった。
やっぱりあれは、父さんではないのだ。二人は決意する。

“「まず最初にやらなくちゃならないのは、あいつを殺す方法を見つけることだ」”

かくして、チャールズとトニー、そして、もう一人、探し物の得意な黒人少年ボビー・ダニエルズの三人で、〈父さんに似たもの〉の正体を探り、立ち向かっていくことになるのだが――。

P・K・ディックによると、“この物語は、ノーマルな感情の別の一例である”そうだ。
「著者による追想」で、P・K・ディックは、幼いころに父親が二人の人間だという印象を持っていたと述べている。
良い父親と悪い父親が、息子の前に交代で姿を現す。もし仮にそれが本当だったら、どうすればよいのだろう? その子には、それを話すことが出来る誰か、話を信じて共に立ち向かってくれる誰かがいてくれるだろうか?
この物語は、ハッピーエンドとは言い難い結末を迎えるが、チャールズには共に戦ってくれる友達がいた。それ故、読後感は悪くない。


家族の中身が、人間とは異なる何者かと入れ替わるのは、「人間らしさ」も同じだ。
個人的にはこちらの方が、「父さんに似たもの」より好み。私がこの物語の主人公と同じ経験をしたとしても、同じ選択をするだろう。

ジル・へリックの夫レスターは、科学者としては優秀なのかもしれない。が、とんでもないモラハラ亭主だ。
レスターは、妻の言動に逐一皮肉な態度を示し、息を吐くようにナチュラルに彼女の人格を貶める。甥(ジルの兄の息子)には、大人気のない嫌がらせをする。
かといって、それらの行為で何らかの快感を得ているわけでもない。彼にとっては、心のこもった食事も親族との交流もすべて時間の無駄。仕事だけが有意義な時間なのだ。
遺伝子的には確かに人間なのだけど、とにかく人間らしくない。ガワは人間だが、精神面で人間らしさを構成するパーツが決定的に欠けている。たいそう気持ちの悪い男だ。

そんなレスターが、甥への態度について妻と口論になった直後、レクサーⅣの遺跡調査に旅立った。
ジルは夫のあまりの態度に、ついに離婚の決意を固めたことを兄のフランクに打ち明ける。

“「結婚して五年になるけれど、年を追ってひどくなるのよ。あの人はほんとうに――本当に人間味がないの。非情なんだわ。あの人も、仕事もね。夜も昼もなしよ」”

“「あの人は決して変わらないわ」ジルは厳しい口調で言った。「わたしにはそれがわかるの。だから別れようと決心したのよ。あの人はこれからもずっと同じよ」”

ところが、レクサーⅣから帰ってきたレスターは、別人のように態度が変わっていた。
妻への思いやりを口にし、室内の調度に興味を示し、妻の作った料理を喜ぶ。それまでのレスターが、不要なものと背を向けていたあらゆるものに、顔を輝かせながら好奇心を示すのだ。
あれほど期待していたレクサーⅣのことは、「ぞっとする」と嫌悪を込めて吐き捨て、幸せそうに顔をほころばせながら地球の素晴らしさを朗々と語る。
レスター自身は、「これでよし、だ」と悦に入っているが、長年夫の冷酷な態度に苦しめられてきたジルは納得できない。一体レスターに何が起こったのか?

いつもの味もそっけもない表情ではなくなった。悠然として、寛容、穏やかな顔つき。態度もまた。食べるし、笑顔を見せるし、いつだって丁寧。甥を相手によく遊び、冗談を言う。
だが、それだけではない。話し方が変わった。
誤解を招く恐れがあると避けていた暗喩を使うようになった。それに奇妙な言葉を使う。今ではもう耳にすることのない、形式ばった、古い文学から借用してきたような言い回し。

妹の話を聞いたフランクには、レクサーⅣでの遺跡調査中にレスターの身に起きたことが分かった。レスターは、レクサー人に体を乗っ取られたのだ。
フランクは、レスターを連邦政府出入国管理官のもとに連行する。

レクサーⅣは死にかけている惑星だ。
しかし、新しい惑星への移住を成功させるには、レクサー人の体はあまりにも脆弱なのだ。それで、一世紀ほど前にこの方法を考え出した。レクサーⅣを訪れた異星人の中身と入れ替わり、その星の者に成りすまして生きていく。移住先に順応出来るようにその星の文化についてかなりの学習を積んでいるが、いかんせん、教材が古い。だから、正体を見破るのは案外容易い。
地球についてのレクサー人の認識は、何世紀も前の地球上の文献に基づくものだ。過去の時代のロマンチックな小説。古い地球の本から学んだ言語や、習慣、風俗。
レクサーⅣからの帰還後、レスターの言動が妙に芝居がかかっていて古臭かったのは、そんなわけだった。

地球人は、レクサー人の不法侵入に厳しい。摘発されたレクサー人は、必ず振動放射能で寄生している人体を傷つけないようにして殺される。
因みにレクサー人は、乗っ取った人体の中身は殺さずにレクサーⅣのどこかに保存している。だから、レスターの中身を取り戻して、元の肉体に入れるのは可能だ。連邦政府出入国管理局では、これまで摘発したレクサー人の入れ替わりに対して、裁判にかけたのちに、すべてそのように対処してきた。
しかし、連邦政府出入国管理局に出頭したジルは、意外な証言をする――。

P・K・ディックは、「私にとってこの作品は、人間とはなにかという疑問に対する初期の結論を述べたものである。」と語っている。そして、「著者による追想」執筆の時点で、その観点はそんなに変わっていない。
P・K・ディックにとって、〈人間らしさ〉とは、どれほど親切であるか、なのだ。そして、〈人間らしさ〉は我が信条だとも言う。
この親切という特質が、人間を木石や金属と区別しているものであり、逆に言えば、人間の肉体を持って生まれたとしても、親切を持たぬ者は、人間とは言えない。人間の皮を被った別のなにかだ。

レスターの新しい中身は異星人だが、元の中身より遥かに親切だ。だから、この星で生きていける。どこで生まれたとか、どんな遺伝子を持っているかなどは、親切であるか否かの前では、些細な問題に過ぎない。


と、二つの入れ替わり物語について語ってみたが、私が本書収録作の中で、最も傑作だと思ったのは「電気蟻」だ。
「電気蟻」について語ると長くなりそうなので、細かく感想を述べるのはやめておく。が、読後の、荒涼とした風が腹の中を吹き抜けて行く様な寄る辺無さは、なかなか面白い感覚だった。この作品をもって、SFならではの妙味というものが、少し分かったような気がした。

語られているのは人間の存在の曖昧さだ。
P・K・ディックは、「われわれが“現実”と呼んでいるもののうち、どこまでの部分が外界にあるのだろうか、それとも、自分の頭の中にあるのだろうか?この物語の結末が、いつもわたしは怖くてならない」と言う。
私が私のものだと思っている記憶や感情は、本当に私が経験し、私の中から生まれたものなのか?私は自分が人間であることを疑ったことはないが、その認識さえも、プログラムされたものに過ぎないとしたら?
本当の私は人間ではなく、〈電気蟻〉と呼ばれる有機ロボットで、私の過去、私の生き甲斐、私の感情のすべてが、人間社会に都合の良い成果を齎す為にプログラムされたものだと知ったら、私はそれを知る以前のように生きていける気がしない。
私の自我が、さん孔テープの穴を塞いだり、テープを切ったり、繋ぎ直したりすることで変わるものだとしたら、私を取り巻く世界のすべてもまた、同様なのだろう。
現実供給装置のさん孔テープが、空虚な音を立てて解け続ける。完全に解けた時、世界も私もあっさり終わる。
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