マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

全て麗しい

2025年01月24日 | キリスト教

「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・ 。」 伝道者の書 3:11  

                      それ故

 「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」 詩編  95:2

 

              He  Will  Carry  You   ( 歌・ 小田 彰 )                                 

「 神には出来ないことはない 動かし得ない山はない 鎮められない嵐はない 慰められない嘆きはない

もし 主イエスが世界の重荷を負い あなたを愛しているなら あなたの重荷を負い何処までも 共に歩いてくださる

主は招く 「 疲れた者来たれと 」 いま ・・・

もし 主イエスが世界の重荷を負い あなたを愛しているなら あなたの重荷を負い何処までも 共に歩いてくださる 」

 

主の家族よ、心から讃美をささげよう。まだ主イエスに出会っていない人々よ、神はあなたを大切に想っておられます。
   

ソロモンは、神が良い方だから、その永遠の計画の中で時を定めておられるはずであり、

それで、神のなさることは時にかなって、すべて美しいと悟っています。ソロンは後に、死に対してもその時は美しいことを語ります。

聖徒たちの死は神に定められたことで、しかも麗しいものであることを述べています。


伝道者の書 7:2
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」

詩篇 116:15
「116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」と

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神はあなたを喜ばない

2025年01月17日 | キリスト教

 

それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。

なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」                                                            
                                        使徒の手紙   5章4節 

人は、他者を愛すると言いながらも、本当の自分の心の奥底を見るにつれ、自己中心であり、物欲と名誉心を求めやすい者です。

人生それで押し通せることもありますが、しかし、神は、騙されるような方ではないのです。それなのに、騙しとおせると思っているのです。

 

神を馬鹿にするにもほどがあります、あなたのことを誰も知らない、知るはずがないと思っておられますか。

でも、神はあなたのことを一番よく知っています。なぜなら、神はあなたを心から愛しておられるからです。

そのあなたのことを、いつも見ておられます。その、神の愛にあなたも応えて頂きたいのです。

 

よく覚えいいなければならないことは 「自分の自由」が「人を不自由にしている」こと。

あなたのいう「本当のこと」やという時 隣人を間違っていると決めつけているとき 神はあなたを喜ばない

しかし 神はあなたが悔いて私の元へ来ることを大変喜ばれるのです。ありのままで主の身元へと行きましょう

 

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渇き

2025年01月10日 | キリスト教

見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。

それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
                                     

                        アモス書 8章 11節

少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。

と言う程度のものではないのです。神不在の世界が必ず来ると言うのです。

主の、み言葉を聞きたくっても、誰も語らない、誰もそれを解き明かさない、

どこにも救いの招きがなくなるということは、世の最後と言うことでしょうか。

いや。これはある人たちにとってはとても素晴らしいことなのかもしれませんね。

暗闇に住み出てこない人々のことですが、神がこの人たちに計画している事は、永遠に愛のない世界に住まわせる事。

しかし、神の御心は全ての人々を救いに入れたいと言う、今、まだ神のみ言葉が語られている間に、主を受け入れられますように。

日本人独特の横を見てからではなく、あなた個人として足を踏み出しましょう。

「  神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」                 
                                         Ⅱコリント 6章 2節

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叫び求めます

2025年01月03日 | キリスト教

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

                               詩編 130 篇 1 節

人は追い詰められ、出口の見えない深い淵にまで落ち込まないと自分の罪が見えない。

「もうだめだ。もう終わりだ」、その極限に追いつめられて人は主を求め、叫ぶ。

この体験をした者は絶望の淵にあってもなおも希望を持つ。

なぜなら神は「罪に目を留める」方ではなく、「憐れまれる」方であることを知る故だ。

 

ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、

まず第一段階に、その事実を否定するそうです。

「やめる気になればいつでもやめられる 」と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。

第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。

始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。

そして第三の段階は、

もう駄目だと絶望して立ち上がろうとしないのだそうです。

人が真実、神を呼び求める時、人はその淵から立ち上がり、抜け出る。

人は神から離れ神をないがしろにした時から、底なしの深い淵に捕らえられていくのです。

しかし、自分の力ではどうにもならないと、知らされて、その深みから、神を呼ぶとき、救い出されるのです。


あなたは今、何段階の状態でしょうか。

主はあなたに速く気付いて欲しいと思っておられます。

この第三段階は、つらくて、苦しんですが、でも、ここが主に出会う所となります。

主はあなたより先回りして、その最悪の底で傷ついた諸手を広げておられます。

私たちにとって、最悪の事態が、最良の時となりうるのです。それは、主イエスを信頼するときにです。

 

 

 

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揺るがない希望

2024年12月27日 | キリスト教

 けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・ 。     ピリピ人への手紙 3章 20節 

 

私たちの目がこの世という地に向いているのか、希望に燃えた神の国に向いているのか。

それが聖い生活を歩むことができるかどうかの鍵であります。

「私たしの国籍」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。

私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれないが、

神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖って下さった方だからだ。

キリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来る。
 
一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。

「 今日一日感謝でした。明日が楽しみです 」 と言うことのできる日々を送っておられますか。

勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、

しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。

一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。

カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってきます。

今日と言う日は主が下さり、その中の諸々のこと、即ち、喜ばしいこと、悲しいこと、嫌なこと。

等々に対して積極的に迎えることができるのです。この地上では旅人、カナンの地目指して喜び勇んで歩む日々なのです。

                    

           想像してください。あなたがカナンの地におられることを。

 

「 心は躍るよ 心は躍るよ カナンの地想うだに 我が胸 躍るよ 」 ヨルダンの彼方に。   

                                  聖歌 642番より

 

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