マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

キリストの力

2024年12月20日 | キリスト教

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

                                            Ⅱ コリント 12章 9節
 

これは、クリスチャンが試金石とすべき根本的な真理です。クリスチャンの力は、自分の弱さの中に現われるということです。

私たちは絶えず、神によって、下へ下へと押し込まれる人生を歩むようにされます。

神は、私たちの夢、野心、期待がそがれていき、これでもかと言わんばかりに、私たちを低くされます。

そして、私たちが低くされたときに初めて、神は、「わたしの恵みは、あなたの十分である。」と語ってくださるのです。

 

人間の持つ高慢さぐらい始末におえないものはありません。あなたは高慢ですねと言われるよりも遜った人ですねと言われる方が心地よいものです、

そして、そう私はそうなんですと言ってのけるのが高慢さなのでしょうか。心が高慢である限り、キリストの救いを受けることはありません。( 絶対にです。) 

しかし、この高慢と言うものは自分ではなかなか判らないもので、神から示されれば聞く耳はあるが、

あなたにだけは言われたくないと言うのもこの高慢です。( 人に言われれば腹の一つも立ちます。) 

 

使徒パウロは 「 高慢にならないように、私の肉体に一つの棘が与えられた 」 と言っています。

パウロの場合その棘がなんであったかよく分かりませんが、これさえ良くなれば、もっと活躍できるのにとパウロは思っていたようです。

私たちも神の下さる一つの棘が自分には判らず、自分の働きを押しとどめるものにしか見えないときがあります。

それ故に神の導きを否み、自我に没入してしまう、この棘が私にとって恵みの導きであり、最高のチャンスだとどうして思えましょう。

真実は神に出会い、神の働きを見るチャンスなのですが。

 

神の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である 」でした。

人それぞれ、生まれ育ち、環境の中でこの問題さえなければどんなに良いものかと言ったこと、一つや二つは持っているものです。

実は神はその棘を与えられ、その弱さを通して働きをされるとパウロは教えています。

パウロは 「 私が弱いときこそ、私は強い 」 と言う経験をしています。

弱さがキリストにあって働きになり、恵みになると言っているのです。

( そう確信できれば嬉しいのですが、この未熟な信仰ではそうもいかないのが現実の私であります、

そして、ぐちぐち言っております。それでも神は私を愛されていることには変わりはないのです。感謝。 )

              

       今日もぐちぐち言いながら神のもとへ行きましょう。そんなあなたを神は待っているのです。

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わが家へ

2024年12月13日 | キリスト教

 

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。                                                 
  
                                                 へブル 11章 16節

 

人生とは神の国を目指す旅であり、私たち信仰者は寄留者です。信仰者の本籍は天にあります。

 

それゆえに 神は一点において、私たちに誇りを持ち、喜んでおられたことがあった。

 それは、神が用意してくださっている天の都をあこがれていた、ということです。

 
ピリピ  3:20
「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」
                   

ピリピ  1:23
「私は、その二つのもの (死と生) の間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。

 実はそのほうが、はるかにまさっています。」                                                                              

                                                                  


ややにちかし あまつわがや こころにえがきて われはまてり  そなえられし わがすまいは かがやける まちのなかにぞある 

                                                   聖歌 364 より

 

 もしよろしければ、聖書をお開きになって、この聖句の文脈をお確かめ下さい。聖書には死後のことも、今の命をどのように生きるかも書かれています。

     聖書は、決して死を待ち望むようには命じてはいません。天国を待ち望むべきであるとごく頻繁に命じています。  

 

                                           マシュー・ヘンリー  

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神に愛された人

2024年12月06日 | キリスト教

だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、
    これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
                       
                               エペソ人への手紙 5章29節

 

 「 いまだかって、自分を憎んだ者はいません 」 と聖書は言うのです。

自分を愛して当然です、これを自己愛と言います。ただ、自己愛は行き過ぎると、自己憐美に陥ります。

そしてこれは、とんでもない悪魔に変身してしまうです。

しかし、聖書の言う健全な自己愛は、自分を愛するように自分の隣人を愛しなさいと言う言葉にかかってきます。

そういう意味で、本当に自分が愛され、また、そのような自分自身をそのままで受け入れ愛してくださった方がおられることを知る、

これが本当の自己愛ではないでしょうか。自分を愛せないで、他者を愛することは不可能なことですし、それは自己満足、自己欺瞞です。

父なる神があなたを愛してくださっているのですから、自分を大切にしていただきたいのです。

もう一度言わせてください、あなたは神にとって特別な人なのです。 

 

Ⅰヨハネ  4:10
「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

         なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」   

 

    
  「下にいる者に落ちる憂いはない」  ジョン・バニヤン

 

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神の命令は

2024年11月29日 | キリスト教

「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

                              マタイ 11章 28節

ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。

現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。


人生の現実は不条理に満ちており、人は不条理に負けて、挫折する。しかし、そのどうにもならない不条理の現実の中で、イエスを信じてすべてを任せ、身を投じていくことで救いが与えられる。


私たち一人一人に与えておられる重荷を最もよく知っておられる方です。他の人はあまりにも自分に合わない重荷を負わせようとするかもしれません。しかし、イエス様の与えられる命令は、いわゆる重荷にはならないのです。


だから 信仰の創始者であり、完成者であるイエスにいつも目を注いで、主の「くびきを負うことの心地よさを、楽しさを、麗しさを」日々経験していきたいと思います。


1ヨハネ5:3
「神を愛する事は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 

   「つかれしものよ きてやすめ」とやさしくイエスまねかせたもう ……… 聖歌 222 より

 

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呪いと祝福

2024年11月22日 | キリスト教

 

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、

もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、

あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」

                                 申命記 11章 27節 ~28節

 

新しい契約においては、キリストを信じる者は、すでに聖霊によって神の証印を押されており、キリストにあって神のうちにいる者にされていることです。

キリストにあってすべての天にある霊的祝福を受けています。ですから、イスラエルのように、神に従順だから祝福されて、不従順であればのろわれるということはありません。

しかし、です。その、キリストのうちにいる自分というのを信仰をもって見つけていかなければいけません。

新約においては、神がキリストにあってなされたことを信じることによって、祝福されます。

何かを行なったから祝福されるのではなく、神が祝福されたことを信じることによって祝福されるのです。

ですから、イエスさまが言われた、「わたしのうちにとどまりなさい」という命令は、すでにキリストのうちにいる私たちが、

その霊的真理を受け入れ続けるということであります。そこに祝福の鍵があります。

 

ただこの世界にはいまだに 福音を受け入れない人は必ずいる。その人々には、福音(キリストの香り)は呪い、滅びの香りになる。

2 コリント 2:16 
「 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。 」

 

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