マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

自信がないかも

2024年09月20日 | キリスト教


「  さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。

   皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」                                           
                           

                                   Ⅰコリント 1章 10節     
 


私たちが、イエス・キリストのご性質やみわざを中心にして集まっているなら、キリストはおひとりなのですから、私たちも一つとされます。

私たちの目は、キリストに向けられているのですから、同じキリストを見つめている人たちとの間には、同じ思いと同じ判断が与えられるのです。

 

クリスチャンの一致とは、ロボットのように、すべてのことにおいて同じように考え、同じように行動しなければならないのではありません。

そうではなく、イエス・キリストという生けるお方と交わるところにおいて一つとなっているのです。

                                             
でも、みんなと同じ思いになるなんて私には無理、それは大切なこととははわかっているのだけれども。 

だけどもそんなに大きな違いはないと思う、チョットした違いが私とあなたとを分けてしまう、

だから私が折れれば済むこととはわかってはいるが、それが出来ない、なぜキットすべてのことに自信が無いからなのかな。 


Ⅰヨハネ 1:3 
「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」

 

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私の只中に

2024年09月13日 | キリスト教

「私は、わが巌の神に申し上げます。

    「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」

                                     詩編 42編 9節


私たちに否定的な思いを持ってくるのは、霊的には悪魔、悪霊どもの言葉です。が。

私たちが落ち込むのは、悪魔が行なっていることではありません。しかし、悪魔は鬱になっている感情を使って、

私たちに神がいることを疑わせるような声をかけてきます。それに屈してはいけません。

 


「主にある愛する方々よ、あなたはこのみ言葉の質問に答えることができますか。

なぜこのように繰り返して喜びの代わりに悲しみが訪れるのか、その理由を見出すことができますか。

なぜあなたの心がいつまでも暗くふさぎ込んでいるのを。そのままにしておくのですか。

夜が朝へと変わることなど決してないと、だれがあなたに告げたのですか。

不満の冬はいよいよ寒さが厳しくなり。雪はより深く、さらに激しい絶望の嵐が吹き荒れるだろうと、一体だれがあなたに語ったのですか。

 

夜のあとに朝が訪れ、日照りの後には夕立が、冬の後には春と夏が続くことを知らないのですか。

希望を持ちなさい。どんなときにも希望を持ちなさい、神は決してあなたを見捨てることはないのですから。」 
                     
                              チヤールス・H・スポルジョン 

 感謝。主は私の只中に居られることを知りました。

  

 

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私は恐れない

2024年09月06日 | キリスト教

「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。

           ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」

                                   ヨブ 40章 4~5節


世渡り下手で、付き合い下手のおじいさんが、チョコチョコと言いたいことを知らせたい。

まず一番に、皆さんは、苦しいとき、辛いとき、悲しいときにどうされていますか。

ぐちぐちと長い祈りをそれも一方的に要求する祈りをしてはいませんか。今日からは、口に手を当てて。

主のなされることをじっと待つことをしましょう。

そして主の御名をこう呼ぶのです。


アドナイ・ ラア ( 主は私の羊飼い)  詩篇 23:1


アドナイ・ イルエ ( 主は備えたもう )  創世記 22:14


アドナイ・ シャロム ( 主は平安 )  士師記 6:24


アドナイ・ ロフェ ( 主は癒し主 )  出エジプト 15:26
  

アドナイ・ ニシ ( 主は我が旗 )    出エジプト 17:15


アドナイ・ムカデ―シュ ( 聖なる者とする主 )  レビ記 20:8


エル・ロイ    ( ご覧になられる神 ) 創世記  16:13


私の苦しとき、主は私の良き牧者です。そして私の歩みの中にすべての良いものを備えてくださり、

心の傷も癒してくださり、そして、平安も戴けました。

そして、声高らかにこう宣言するのです。アドナイ・ニシ と それゆえに 

詩編  42:5 
わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。

      神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

詩編  27:14 
主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。

                          シャローム

 

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パン屑に大きな祝福が

2024年08月30日 | キリスト教

 

「 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

                                                                                マタイ 15章 27節 

彼女は娘のために、イエスに取りすがります。しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。

イエスのお答えも「 わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない 」でした。

しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわりされてもつまずきませんでした。彼女には愛がありました、

ベンゲルという人は、「 彼女は子供の苦しみを自分のものと感じていた 」と言っております。

彼女は異教徒でありましたが、愛の心を持っていました。

弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。

しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。

「 パン屑はいただきたい 」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。

パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。

イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。

単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。

彼女を動かしていたのは、愛です。愛は全ての者のうち、最も神に近いものです。

人は苦しみの中でこそ、まことの愛の神を求めるものです。わたしたちも、熱心に主の恵みを求めながらも、

主よ、おことば通りですと、全てを委ねた信仰を目指しましょう。主はこのような信仰を歩む者を今も求められています。

彼女の娘はその時から治りました。

パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、

カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。

このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。

 

 

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この方以外には

2024年08月23日 | キリスト教

「 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、

                    天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

          
                                使徒の働き  4章 12節


 「 宗論はどちらが勝っても釈迦の恥 」   江戸川柳 より
                            

 「 可能であれば平和を、しかしどんな犠牲があろうとも真理を 」  ルター

 


ここまで徹底的に、真理をそのまま伝えている言葉がないと言ってもいいほどです。大胆というのは、こういうことです。

権威や圧力から自由にされて、真実に、良心をもって神に仕えることのできる自由です。

                           
私にたとえ知識が無くとも、教理を知らずとも、主は私の神である事には変わりがない。

神が私の神になってくださったという、このことこそが私たちの恵みであり、喜びの基盤です。


この世には救い主だと自認するお方が多くおられますが、ただ、十字架にかかり甦られた主が、私の主。このお方のみが私を満たし恵まれる、

この方を喜びたい。この方に感謝を差し上げたい。私の全てを捧げたい。

生ける神の一人子、主キリスト・イエスへ。ただこのお方に。栄光あれ。  

 

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