マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

信じたから・・・ ?

2024年11月15日 | キリスト教

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

                                  Ⅱコリント 11章 27節


私たちが信じた後、とおらなければならない道。 

( 信仰 × 試練 = 信仰 - カス + 忍耐 = 円熟したクリスチャン ) しかし、もし出来るならば通りたくないと言うのが本音でしょう。

誰もが、苦しみから解放されたいと願いますが、何処にも、苦しみの無い人生などと言うものはありません、

信仰を持ってクリスチャンになったとしても、それは苦しみに出会わない人生を意味するものではありません。

 ( それどころか、聖書にはあなた方はこの世にあって艱難がありますとはっきり記されています。 ) 

では、信仰を持つと言う事は、一体何を意味するのでしょうか。

それは、苦しみに出会わない人生ではなく、苦しみはあるけれども、苦しみによって潰れてしまう事のない人生、

そんな人生を聖書は確かに約束しているのです。苦しみに潰れず、いや潰れないだけではなく、それを乗り越えて、

その都度新しくされていく、その素晴らしい人生を約束しているのです。

私たちには、「 確信 」 の二文字はあっても、 「 絶望 」 の二文字はありえないのです。

 

信仰者の強さは、自分の強さではありません、自分が強いのではなく、共におられる主が強いのです。

誰もが強く揺るがない人生を送りたいと願わない人はないのです。

もしも、強さの原因が、単なる自信であるならば、その強さはやがて、自らの限界と共に崩壊する可能性を秘めているのでは。

私たちは、一見強そうに見えて、実は大変もろいのではないでしょうか。
   
         「 苦しむ事が悪いと言うのではなく、思い煩う事が問題なのです 」
              日曜日には教会へ家族揃っていかれますように。

 

「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ・・・

神を信じる者にとって、神は愛なのである・・・神の下さるものに悪いものはない、

私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。

                                                                                                   三浦綾子著 「泉への招待」から

 

 

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神のあわれみ

2024年11月01日 | キリスト教

「・・・。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」


                                          Ⅱ列王記 4章 26節

あなたの死に出会っても わたしの魂は悲しみに屈しない

死は長い別離ではない それは蔓を伸ばしていき 

塀の向こう側で花を咲かせる 薔薇の蔓のようなものではないか

死は人を隠すものではあるが 人と人とを分かつものではない

あなたはキリストの側に行っただけなのだ

あなたはキリストと共におり キリストは私と共にいてくださる

キリストにあって私たちは いまも結び合わされている

                               「 荒野の泉 」12月3日の記事より

 

死とは辛く悲しいものです、それはその死が全てであるかのように思うからです。

もちろん一時の別れは辛いものですが。しかし。キリストを主と信じ受け入れた者にとっては死も生も私たちには影響を及ばさない。

 

主イエスは言われました。

「・・・ 。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 で終わらずに。

神の国においても共にいてくださるのです。  マタイ 28:20


ルカ7:13-15
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。

そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

イエスは『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。

すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。

 

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自由とは

2024年10月25日 | キリスト教
「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」        

            ヤコブ 2章 8節

全地を創られた神はご自分の姿にかたどって造り、その上に自由意志というものをお与えになりました。

そして、人間は神に逆らうと言うことを覚え、そのために、自分自身を滅ぼすことさえできるようになりました。

これは一つの大きな謎と言えます。現在私たちの目前でみられる色々な現象はこの謎の恐ろしい一面です。
しかし人間はまた他方で、この自由意志のために、自ら進んで神に仕え、隣人のために尽くし、

永遠の救いを勝ち取ることもできるのです。なんと大きな違いでしょうか。

神からいただいた 「自由 」 を自由に使いこなすことは悪いことではないが、一致、真理、そして隣人への

愛のため自らの自由を放棄することができるのなら、これこそが自由の素晴らしい使い方ではないでしょうか。

聖書から少し
ガラテヤ  5:13
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」  

Ⅰペテロ  2:16
「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」 

この律法を信仰によって真に受け入れて生きるのなら、民族的、社会的差別は無くなると信じます。また人間的功績や社会的身分による差別も無くなることでしょう。




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飢饉が来る

2024年10月11日 | キリスト教

見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。

  それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
                                 

                            アモス書 8章 11節


少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。と言う程度のものではないのです。

神不在の世界が必ず来ると言うのです。

主の、み言葉を聞きたくっても、誰も語らない、誰もそれを解き明かさない、

どこにも救いの招きがなくなるということは、世の最後と言うことでしょうか。

 

いや。これはある人たちにとってはとても素晴らしいことなのかもしれませんね。

暗闇に住み出てこない人々のことですが、

神がこの人たちに計画している事は、永遠に愛のない世界に住まわせる事。

 

しかし、神の御心は全ての人々を救いに入れたいと言う、今、まだ神のみ言葉が語られている間に、主を受け入れられますように。

日本人独特の横を見てからではなく、あなた個人として足を踏み出しましょう。

 

もう一度言わせてください、人々が主の言葉を聞くことが出来ないというのは、

主がもうお語りにならなくなったということではありません。

主が語っても、悟ることができない、聞くことができなくなったということです。

 

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パラダイスへのチャンス

2024年10月04日 | キリスト教

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」           
                                          
                ルカの福音書  23章 43節


イエスが死なれて、この犯罪人が死んでから、いや、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるようになったのです。

彼はまだ十字架につけられています。その苦しみを受け続けています。けれども、罪の赦しを得たのです。イエスの祈りが、この犯罪人において聞かれたのです。


私たちの主とともに、十字架につけられた二人の強盗の一人、ラスト・チャンスを掴んだ、最高にラッキーな人物。

ある物語では。彼はイエスに出会うのはこれが初めてではなく、二度目だと言うことです。一度目は、主が両親と、エジプトへ逃れる途中でであったと言う物語があります。

勿論彼は、その時から強盗でしたが。  

 

日本のことわざに「終わりよければ、すべてよし」と言う言葉がありますが。あなたにとって人生の終わりとはどんなものでしょう。  

主イエス・キリストは、いつもあなたに、手を差し伸べて。あなたにチャンスの用意をしてくれています。

あなたはこのチャンスを受け取りますか、それとも無視しますか ??   

 

主イエスはあなたを捜し求めています。私のところに来なさいと。 今日も忍耐を持って待っておられます。

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