労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
Ⅱコリント 11章 27節
私たちが信じた後、とおらなければならない道。
( 信仰 × 試練 = 信仰 - カス + 忍耐 = 円熟したクリスチャン ) しかし、もし出来るならば通りたくないと言うのが本音でしょう。
誰もが、苦しみから解放されたいと願いますが、何処にも、苦しみの無い人生などと言うものはありません、
信仰を持ってクリスチャンになったとしても、それは苦しみに出会わない人生を意味するものではありません。
( それどころか、聖書にはあなた方はこの世にあって艱難がありますとはっきり記されています。 )
では、信仰を持つと言う事は、一体何を意味するのでしょうか。
それは、苦しみに出会わない人生ではなく、苦しみはあるけれども、苦しみによって潰れてしまう事のない人生、
そんな人生を聖書は確かに約束しているのです。苦しみに潰れず、いや潰れないだけではなく、それを乗り越えて、
その都度新しくされていく、その素晴らしい人生を約束しているのです。
私たちには、「 確信 」 の二文字はあっても、 「 絶望 」 の二文字はありえないのです。
信仰者の強さは、自分の強さではありません、自分が強いのではなく、共におられる主が強いのです。
誰もが強く揺るがない人生を送りたいと願わない人はないのです。
もしも、強さの原因が、単なる自信であるならば、その強さはやがて、自らの限界と共に崩壊する可能性を秘めているのでは。
私たちは、一見強そうに見えて、実は大変もろいのではないでしょうか。
「 苦しむ事が悪いと言うのではなく、思い煩う事が問題なのです 」
日曜日には教会へ家族揃っていかれますように。
「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ・・・
神を信じる者にとって、神は愛なのである・・・神の下さるものに悪いものはない、
私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。
三浦綾子著 「泉への招待」から