マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

仕えるということは

2020年04月03日 | 聖書

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者

           の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

                                 マタイ 25章 40節

 

わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、

旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、

牢にいたときに訪ねてくれたからだ。という聖書のみ言葉を実践しましょう。

 

イエスは、神に仕えるということは、人に仕えることであると言っておられるのです。

神は私たちが人生で、日常の人々のふれあいの中で、どのように過ごしてきたのか、その在り方によって、

羊と山羊を分けるように、永遠の生命と、永遠の刑罰を受けるようにされるというのです。

 

王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。

イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。

そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。

私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、

実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。

ここに「わたしが」「わたしが」とくり返されていることに注目してください。

キリストのさばきの基準は、一人一人がキリストに対して何をなったかに関わっています。

 

 

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三人の盲人の話

2020年02月14日 | 聖書

「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」

                         詩編 111編 10節 

こんなお話を聞いたことがあります。「三人の盲人の話」という物語です。三人の目の不自由な人が動物園に行き象を見学しました。一人は象の足をさわって大きな柱のようだと言い、一人は象の腹を触ったので大きな岩のようだと言い、もう一人は象の鼻を触りホースのようだと言いました。この三人の目の不自由な人が自信をもって言っているのは象の総てではありません。

同じように、私たちも日常生活において、この三人のように一部を触って総てであると考えているのではないでしょうか。また私たちは自信をもって絶対と言い切ることができるでしょうか。私たち自身は何も言い切ることができない存在です。

聖書は私たちに何を教えてくれているのか、聖書こそ私たちにどんな困難な時も解決してくれる道を指示しています。私たちの能力と知恵をはるかに超えた神。その神を畏れることです。神を畏れるということは、神を信じる、神の教えに従っていくということです。

私たちが、自分たちの心についてじっくり調べるのではなく、主のすばらしさをじっくりと調べるのであれば、神のお働きやご性質に細心の注意を払っていくならば、それが主への恐れ(畏れ)へとつながります。

 

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見えないものにこそ

2016年05月13日 | 聖書

「 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

                 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

                                                第二コリント 4章 18節

 

さて、「星の王子さま」と言えば、フランスの作家サン・テクジュベリーの書いた有名な童話ですが。

その童話の終わりに近いところで、キツネが、王子さまに秘密を贈り物として、次のように言う所があります。

「なに、何でもないことだよ。心で見えなくちゃ、物事はよく見えないってことさ。肝心なことは、

目に見えないんだよ。」すると王子さまは、この狐の言葉を忘れないようにするため「肝心なことは目に見えない」

と何回も繰り返すのです。確かにこの狐が言うように肝心なことは目に見えません。しかも、大抵の場合、

目に見えるものはお金で買えますが、目に見えないものは、お金では買えません。

やがて消えていくこの世の一時の感覚的なものではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきです。

なぜなら、神の契約や神の恵みには、時間的制約がない。どうしてかて言うと、神は時間を超えた存在だからです。

毎日あくせくと、目に見えるもののみ追い求めるのではなく、目に見えないものに目を注ぐ、心のゆとりが欲しいものです。

聖書から

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」 エレミヤ 31:3

「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」        ロマ 8:25

 

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神の平安が

2016年05月06日 | 聖書

「  神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、・・・・ 。」

                                                                             創世記 1章 27節 

 

今の時代、私たち人間の存在意識が問われているように思います。科学の発達は人間を救ってきました。と言っても

外面的なことで、内面的な事にはまだまだ科学の入る余地はないようですが。しかしいずれにせよ、

科学は人間を幸福にすることが目的であるはずですが、

( ちなみに、科学の子、鉄腕アトムのロボット憲章ではこうあります。 ロボットは人間を幸せにするために生まれたものである。 

ロボットは人間につくすために生まれてきたものである。 ロボットは人を傷つけたり、殺したりしてはならない その他 )

しかし、今やその科学文明が行き詰っています。家庭内暴力や、幼児虐待、働き盛りの人かせ仕事を奪うリストラなど、

人間を否定するものがいかに多いことでしょうか。長年誠実に人たちがリストラのもとに仕事を止めさせられ、

切り捨てられ、自殺者の数がなんと多いことでしょう。このような現実はまさに恐ろしいことです。幸福になりたい、

幸福になった、しかし幸福になってもそれは非常にもろいものです。

私たちは確かな幸福を得たいと願います。この幸福とは、神があなたを創ったという、あなたの価値が神にとって、

貴重なものであると言う事に気づいてゆくことにあるのではないでしょうか。

聖書から

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。・・・・・ 。」  イザヤ 43:4

「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 ピリピ 4:7

 

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聞いてくださった

2016年04月29日 | 聖書

 

「 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。」

                                            詩編 9 編 20節

 

昔、イスラエルの民は、モーゼに率いられてシナイの砂漠をさまよいました。

( 本当は神の導きの手の中にあったのですが、人々はそのことを理解し得なかったのです。

人は力に満ちた神の前に自らの弱さ、無能を悟らなければならない。) 彼らは天幕住まいでした。

その真ん中に神の契約の箱を置いた天幕がありました。モーゼは、雲の柱、火の柱の導きに従って、

契約の箱を担ぎ、前進しました。契約の箱を担いで前進するときはいつも、「 主よ。立ち上がってください 」 

と言ったことが旧約聖書の民数記の中に記されています。私はその時の情景を心に描きます。そして、思うのです。

「 神様、立ち上がって敵を破り、私を助けてください 」 と。悲鳴のような叫び声を上げなくても、

( ここで知っていてほしいのは、主イエス・キリストの十字架の恵みによって、民ではなく、子とされたと言う事です。)

私の人生、私の朝夕の生活の中で、神が神として立ち上がっていてくださる。私が神の民として従っているところに、

私の人生の勝利も平和や喜びも、人生の使命も栄光もあるのだと思うのです。

聖書から

「 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。

   むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」   詩編 22:24

 

 

 

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