「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」
Ⅰコリント 12章 20~21節
パウロは、教会と人類を人間の体にたとえました。人それぞれが目であり耳であり、足であったりするわけです。
目と足とは、いくら話し合ったとしても、お互いが決して理解し合うことはできません。
ご存知のように目が、明暗や色彩を中心にして、何が明るく楽しいかを語ったとしても、
足としてみれば、地面が堅くって歩き難かったなどということを話題にするでしょう。
しかし目は足がなければ一歩も前進できませんし、足は目がなければ壁にぶつかってしまうのです。
ですから互いに必要な仲間なのです。
人類は、まさにこの体の各部分のような共同体を形成します。そして互いが連帯を保ちながら
生きることを求められています。誰一人要らない人はいないのです。
さて、ここで再びパウロは、より人目につくからだの器官が、あまり見ばえのしない器官に対して、
「必要としない。」と言っていることに注目してください。目が手に向かって、「必要としない。」と言っています。
また、頭が足に向かって、「必要としない。」と言っています。けれども、見ばえがよいか悪いかで、
その器官が必要なのか不必要なのかを決定するものでは、もちろんありません。
そこでパウロはキリストのからだについての、核心部分に入ります。教会と、その他の人々の集まりとの
違いを明らかにします。それは、互いの器官がいたわり合うという、からだの機能です。
今、思いやる心というものが薄れていく時代に教会がなにかを成し得ていかなければならないと思うのです。