「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
ビリピ 2章 7~8節
私たちが自分だけではなく、他人のことを顧みるとき、見るべきところはキリスト・イエスです。
キリストを見ながら、私たちは思いを自分から他人へと移すことができます。
私たちにも、「なぜ、このようなことになるのですか?」という叫びを出したくなるような時があります。
しかし、キリストの思いを抱いているのなら、そのような叫びを出したい時に、
それでも主がそうしなさいと言われるところに従う時、そこには深い悲しみがあるけれども、心は失望しない、
むし ろ痛みの中に御心を行なっているという喜びと満足があります。
そして、イエスは人間関係における順序を次のように教えられました。
エペソ 6:1
「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」
「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」
エペソ 5:22
「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。」
「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。」
1ペテロ 5:5
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。
神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」
ローマ 13:1
「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、
「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、
おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」
「神が全てを解決してくださる」から、あなた方はその「神を寄り頼め」、「自分が、自分が」と主張して、
教会を分裂させることは、イエスに従う者の取るべき道ではない。
この神に従って人を第一とするとき恵みとして平安に満たされるのです。