「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
マタイ 5章 16節
私たちが、自分の信仰、神に対する希望をただ心の中に留めていくことだけでは不十分だということです。
信仰とは公にするものです。口で告白するものです。
それは、教会のみならず、世の人に対しても明らかにすることです。これには危険が伴います。
なぜなら、自分がキリストにそぐなわないことを行なえば、すぐに周りの人はそれを認め、
「だからクリスチャンは・・・」と言って、キリストの名が侮られる可能性があります。
けれども、私たちはキリストの使節です。出て行き、キリストの権能を携えて、その力を行使する者たちです。
あるテレビのディレクターが、放送雑誌に書いていました。
「最近の若いタレントたちに、ドラマの中で『幸せそうな表情をしてごらん』と注文をつけると、
十中八・九人までが、得意げな顔をする」というものでした。大勢の中からオーディションの末、
晴れてタレントの座を獲得した人たちのこと、幸せイコール得意と考えるのも当然なのかもしれません。
しかし、幸せと得意とは必ずしも同じではないのです。得意に輝いている人々と、幸せで輝いている人々とでは、
輝きの質が違います。得意に輝いている人の陰には、必ず失意の人々がいるのに対して、
幸せで輝く人は、周囲の人々にまで幸せにする力をもっています。
イエスは、外から浴びるスポットライトで輝く得意な人ではなく、
自分のうちに光の源をもって輝く人になりなさいと言われました。