「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
ヨハネ 6章 63節
これがイエスの言葉と、ユダヤ人たちの理解の間にあるすれ違いでした。
主は、霊的なこと、神の御霊に関することを話しておられました。
けれどもユダヤ人たちは肉に関すること、目に見える事柄のみで考えていました。
イエスの御霊のことばと、人々の肉のことばのすれ違いでした。
イエスは、霊のいのちのことを語られたのに、人々は肉のいのちのことを考えていました。
この世には2つのいのちがあります。御霊のいのちと肉のいのちです。
ローマ8章2節で、「いのちの御霊の原理」というのがあります。
ちょうど自然界に重力の法則があるのと同じように、いのちの御霊の法則があります。
これに従えば、主は私たちの内で、私たちができなくなっていることをしてくださいます。
いのちの御霊の原理は、私たちがイエス・キリストを信じる時から働きます。
この方を信じることによって、主が与えようとしている力、知恵、知識を知ることができるのです。
ここにいるユダヤ人たちのように、多くの人が肉によって神のこと、キリストのこと、
聖書のことを知ろうとしています。どんなにギリシヤ語を学んでも、どんなにヘブライ語を学んでも、
神学の博士号を得ても、神の真理に至りつくことはできないのです。御霊を受けた無学の信徒が、
これら学識ある人々よりも、神の知識について優れています。肉は何の益ももたらさないのです。
おまけ …… 。
" 思う一念岩をも通す" という言葉があります。昔々、中国大陸に弓矢に長けた武将がいました。
夕方休息をとっていますと、「虎だ」という声がしたので、彼は弓に矢をひきその虎に放ちました。
「当たった ! 」と誰かが叫びました。おそるおそる近づいてみると、それは虎ではなくて岩だったのです。
しかし、彼の矢は虎と思っていた岩に突き刺さっていたと言います。
信じるということ、確信するということは無限の力を引き出し、ことを成し遂げるのです。
救われると信じることは、救いに通にじます。キリスト・イエスはそのために来られたのです。