目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
詩篇 121扁 1~2節
この詩篇の問いかけは「私の助けはどこからか」です。詩篇の作者は自分自身が大いなる守りと安全を必要としていることを感じながら、
「その助けはどこから来るのだろうか」と思案しています。
安全の保障、防衛の保障は、生存の保障と並んで、私たち人間の基本的なニーズです。
私たちの人生の営みのほとんどは、この必要のために生きているといっても過言ではありません。
「自分は誰の世話にもなっていない、自分の力だけで生きている」と錯覚している人がいますが、傲慢と無知丸出しです。
人は一人で生きることはできません。私たちは毎日他者の助けを必要としています。老人や幼児だけの問題ではありません。
青壮年の方々も例外ではありません。高齢になると、そのことをいっそう痛感します。
昨年は苦にならなかったことを、今年は負担に感じて助けを求める事になります。
私たちが必要としている助けは様々です。青年の力を借りることがあります。老人の知恵を借りることもあります。
医療技術者の助け、教育指導をいただく助け、熟練工の助け・・・。助けなしでは生きられない私たちは、
悲しい事に時々見せかけの助けに欺かれることがあります。
この「私の助けは、天地を造られた主から来る。」との告白は、新約的に言い換えるならば、
自分が「肉の支配下」ではなく、神の賜物である「聖霊の支配下」においていただいていることを信じ、
聖霊に導かれることを願う生き方と言うことができます。
「私は山々を仰ぐ」とあります。山々とは、どこにでもある山ではなく、シオン(エルサレム) にある山です。「仰ぐ」は、祈りの姿勢です。
シオンの丘には神殿が立っており、そこには神の臨在を象徴する契約の箱が安置されていました。
巡礼者は、そのシオンの山々に向かって目を上げ、信仰の祈りを捧げました。彼は問いかけました。
「私の助けは、どこから来るのか」 と巡礼者は自問自答の信仰告白として、「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」と。
人や、富や、地位に頼ると、必ず失望します。しかし、天地を創られた主に頼るなら、決して失望させられることはありません。
神は、私たちの肉体的、精神的必要をすべて知っておられて、それを満たすことができる神なのです。