「 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
マタイ 15章 27節
自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。
イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。
私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。
「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。
しかし、彼女は娘のために、イエスに取りすがります。だが弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。
イエスのお答えも「 わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない 」でした。
しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわりされてもつまずきませんでした。彼女には愛がありました、
ベンゲルという人は、「 彼女は子供の苦しみを自分のものと感じていた」と言っております。
彼女は異教徒でありましたが、愛の心を持っていました。
弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。
しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。
「 パン屑はいただきたい 」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。
パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。
イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。
単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。
彼女を動かしていたのは、愛です。愛は全ての者のうち、最も神に近いものです。
人は苦しみの中でこそ、まことの愛の神を求めるものです。わたしたちも、熱心に主の恵みを求めながらも、
主よ、おことば通りですと、全てを委ねた信仰を目指しましょう。主はこのような信仰を歩む者を今も求められています。