ピレネーの山の犬 Zion♪シオン

シオンとともに歩く道、ともに見る風景、暮らしと庭の花たち。

シスターとピレネー

2018-12-25 | 教会
クリスマスの前日、大浦天主堂と出津教会堂を訪れました。



大浦天主堂では、私が拝観している間、
Zionは階段下にある売店の前で待っています。

慌てて戻りながら、階段の上から見ると、
Zionはシスターに話しかけて頂いたり、
訪れた人々に可愛がってもらったりして時を過ごしていて、
幸せなことだなぁと感謝します。



出津教会の旧救助院では、案内をされていたシスターとお話するZion。

以前にも訪れた時、受付をされていた100歳になられるシスターもお元気と伺い、
あの時、Zionに優しくして頂いた思い出がよみがえるようでした。



教会堂に吹く海風・・・この日はとても穏やかでした。


(大浦天主堂HPより)

大浦天主堂には、2つのマリア像があります。


(大浦天主堂HPより)

信徒発見(1865年)を見守ったマリア像。
大祭壇に向かって右側の小祭壇に飾られていて、
創建当時(1864年)フランスから持って来られたものだそう。



そして、天主堂の入り口にあるマリア像。
「日本に数多くの潜伏キリシタンがいた」というニュースが全世界に伝えられた際、
フランスからその記念として贈られたというもので、
礎石には、慶応元年三月十七日 日本之聖母像 信徒発見記念
と書かれています。



悲しくて優しい全てを包み込むような祈り・・・
禁教の歴史の中に生きた人々、そして今を生きる人々の思いとともに。

*****

ところで、Zionはシスターに何のお話をしたのでしょう。
まさか、クリスマスのプレゼントのおねだり・・・
じゃないよね?


  

今日も会いに来てくれて、ありがとう!




大浦天主堂、本河内ルルド

2015-06-14 | 教会
開国間もない1865(慶応元)年、長崎の南山手にある外国人居留地に
フランス人の礼拝堂として建てられ、日本二十六聖殉教者天主堂と命名された。
設計はフューレ神父とプティジャン神父。
通称、大浦天主堂(国宝)。



1597年、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって処刑され、
後にローマ教皇ピウス9世によって列聖された
司祭と信徒ら26人に捧げられた教会堂である。

そして、長い禁教の時代を2世紀半に渡り潜伏していたキリシタンが
信仰の名乗りをあげた世界宗教史の奇跡として知られる信徒発見の地。



明治8年から12年に増改築を行ない、木造から煉瓦造りになった。
煉瓦には漆喰が塗られ、外部デザインは変わったものの、
内部は創建時とほとんど変わっていないという。

これより3年ほど早く建てられた開国後初の横浜天主堂が
関東大震災で倒壊したため、現存する日本最古の教会堂であり、
明治以前の建築として極めて完成度が高いと言われている。



美しく愛しみに満ちたマリア像・・・
大浦天主堂は、二十六聖人の殉教地である西坂の丘へ向かって建てられている。



西坂の丘。
列聖100年祭を記念して、1962(昭和37)年、御影石の台座に
二十六聖人等身大のブロンズ像を配した記念碑が建立された。
隣接するのは、日本二十六聖人記念聖堂。



そこから車で数分のところに、本河内教会がある。
坂道を上って行くと、静寂な空気に包まれる。
1933(昭和8)年、コルベ神父により造られたルルド、祈りの空間。

フランス南西部の小さな町、ルルド。
聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られる
聖地マッサビエルの洞窟を模して造られたものである。



お水は地下水を汲み上げているもので、
フランス・ルルドの聖水も注がれているとのこと。

1981年(昭和56年)に教皇ヨハネ・パウロ2世が、
その翌年には、マザー・テレサが訪問されている。


  

今日も会いに来てくれて、ありがとう!




天草の海の教会

2015-06-06 | 教会
九州を北上し、海の中道に来ていた阿蘇の大河くん、
今頃は日本の真ん中あたりだろうか・・・
北への旅が素晴らしいものになりますように・・・

その頃、Zionは南下して熊本県天草市へ。



昔ながらの漁村の景観が残る崎津集落の中心に白い尖塔が見える。
漁港の集落に教会がある風景・・・
崎津教会。



とても不思議な感じがした。
隠れキリシタンの歴史を持つ地域の教会は、
人家もまばらな山の中などにひっそりと建っていることが多く、
このような集落の中心にあることは珍しい。

それ故、小さな路地を歩いて教会に向かうと、
教会と人々の暮らしの一体感に安らぎを感じた。



ザビエルが鹿児島に上陸してから17年後、
アルメイダ神父により、天草にキリスト教が伝えられたのは1566年のこと。
崎津教会は、1569年に建てられた。

明治以来3度建て直され、現在の教会は1934(昭和9)年に竣工。
ハルブ神父により、禁教時代に踏絵が行われていた庄屋屋敷跡に建てられている。
設計・施工は鉄川与助、鉄筋コンクリートと木造から成る。
堂内は、今では珍しい畳敷きになっている。



教会の近くの岬にはマリア像が海を見守って・・・

神社の行事にも参加するという崎津教会の信者さん。
宗派関係なく助け合う心が日本人らしくて好きだ。



教会のすぐそばにある店で崎津の伝統菓子「杉ようかん」を買った。
後世に伝えようと頑張るおかあさんたちの笑顔と
素朴な美味しさが心に残った。



そして、崎津から大江へ。
丘の上に佇む大江教会を訪れた。
白い教会は、周囲の深い緑に映え、遠くからでもよく見えた。



大江教会は、明治初期に建てられた木造の旧教会堂に替わり、
ガルニエ神父により、1933(昭和8)年に建て替えられた。
鉄川与助の設計・施工、鉄筋コンクリート造り。

1892(明治25)年に天草に赴任したガルニエ神父は、
以来50年(大江崎津兼任、後に大江の主任神父)
この地に尽くし、大江教会に永眠している。

また、1907(明治40)年、与謝野鉄幹や北原白秋ら文豪5人が
ガルニエ神父に会うために旧教会堂を訪れている。
九州の旅の紀行文「五足の靴」に、その時のことが記されている。



夕日が沈む頃、再び崎津に戻った。
岬のマリア様に夕日が重なるのは冬だろうか・・・

今度は、遊覧船から夕日を見てみたいと思った。
いつかまた、天草の教会を訪ねて・・・


  

今日も会いに来てくれて、ありがとう!




教会にいたピレネー

2015-05-27 | 教会
少し前のこと、ピレネーの山を歩いて来たと言う人が教えてくれた。
山歩きの途中、スペインの巡礼地に向かう人に出会った。
その人は、ピレネー犬とともに巡礼の旅をしていたと・・・

きっと、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を辿るのだと思った。
フランスからピレネー山脈を越え、スペインの北部を横断する800~900キロの道程。
一日に30キロ歩いて1か月、多くはそれ以上かかるに違いない。

遥か遠くの旅人へ・・・どうか無事にいい旅が出来ますように。



3月から行ける時に少しずつ、長崎の教会を訪れている。
平戸市の田平天主堂、紐差教会、宝亀教会、山田教会。
佐世保市黒島の黒島天主堂。

そして、5月は長崎市へ、出津(しつ)教会を訪ねた。



1879(明治12)年、外海(そとめ)地区の主任司祭として赴任した
マルコ・マリ・ド・ロ神父の設計・施工により、1882(明治15)年に完成。
この地特有の強い海風に耐えるよう
シンプルで実用性を重視した造りになっている。



教会の下の小径は、出津救護院へと続く。
ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として建てたもので、
織物、縫物、食品加工などを行った。

シスターとお話をしていたら、
作業場の2階に珍しいものがあるというので、見せて頂いた。
許可を頂き、撮影。



神父がフランスで購入した古い時計がひっそりと時を刻む。
こちらの大工さんが作ったという木の箱の中。
文字盤の上のレリーフ模様を見て・・・



羊飼いの少年の左側に仔羊、右側にいるのがピレネー犬だそう。
分かりにくいけれど、大きさの比率も変だけど、よく見ると確かに・・・!
100年以上も前からここにいたんだね・・・感動・・・



そして、このデュモン社製のハルモニウム(リードオルガンの一種)は、
神父が1889(明治22)年頃にフランスから取り寄せ、
毎日のミサで使われたものだそう。
何と私も弾かせてもらった。
それは、あまりにも懐かしい優しい音色だった(涙)。


(ド・ロ神父記念館)

当時の外海は、道路も整備されていない陸の孤島。
山と海に挟まれたわずかな土地での半農半漁の暮らしは貧しかった。
神父は地域の窮状を救うため、私財を投じて産業を興し、
医療、教育、福祉など多方面で外海の振興に尽くした(長崎新聞)。
そして、二度と故郷の地を踏むことはなかった。



外の木陰で主人と一緒に待っていたZionに
シスターが優しく話かけて下さった。

あなたも十字架を掛けていたのね・・・
また来てね、よい旅を。

また巡ろう。
その地に立つ教会堂・・・
その地に生きた人々を思いながら・・・


  

今日も会いに来てくれて、ありがとう!




黒島天主堂

2015-03-22 | 教会
長崎県佐世保市から平戸市にかけて
海岸線沿いに浮かぶ208もの島々・・・総称、九十九島。
その最大の島、黒島を訪れた(3月21日)。



黒島へは佐世保市相浦港からフェリーが出ている。
何人ものシスターとともに始発便に乗り、50分。
黒島港から30分ほど歩くと見えて来る。



黒島天主堂。
1878(明治11)年に赴任したペルー神父による木造の教会に替わり、
マルマン神父による現在の煉瓦造りの教会が竣工したのは、
1902(明治35)年。



最初に下五島に赴任したマルマン神父は、
貧困の犠牲となる子どもの養育事業などに尽くし、
伊王島、奄美大島、琉球を経て、1897(明治30)年、黒島に赴任した。

黒島天主堂建設の寄付金を集めるために一時フランスへ帰国するが、
1912(大正元)年に没するまで黒島で過ごし、人々に尽くした。



黒島のキリシタンの歴史は、
江戸時代後期、徳川幕府の禁教政策による弾圧を逃れ、
外海地方などから移住して来た信徒が集落をつくったことに始まる。



1865(元治2)年3月に浦上の信徒が大浦天主堂で信仰を明らかにした
「信徒発見」から2か月後には、黒島の信徒代表も大浦天主堂を訪ねている。



三層構造の内部空間は、細部まで手が込んでいる。
リブヴォールト(こうもり天井)の木目は、
安価な板材にひとつひとつ描かれたもの。

祭壇の床に敷き詰められた有田焼のタイル。
マルマン神父の手彫りの装飾が施された説教台。
クリアストリー(高窓)から差し込んで来る光。

美しいだけでなく、とても優しい。



帰りのフェリー。
親しみを感じる朝と同じ顔ぶれ。
Zionはまた50分間、立ったまま、海を見ていた。



さようなら、黒島。

世界遺産に登録されたら、こんな風にのんびりと
Zionと一緒に来れないだろうなぁ。


  

今日も会いに来てくれて、ありがとう!




今村教会

2015-02-18 | 教会
今村教会(福岡県大刀洗町字今)。

1879年(明治12)この地で隠れキリシタンが発見されてから34年後、
1913年(大正2)に竣工した。
長崎の原爆投下で破壊される前の旧浦上天主堂を彷彿とさせる。
設計・施工は、当時長崎で多くの教会建築を手がけた鉄川与助。
戦火を免れ、現在も建設当時の状態が保たれている。



よく来たね・・・
Zionに言ってくれているような気がした。

時の流れを静かに見つめて来た謙虚な空間。
今、ともに命を輝かせることに懸命になろう・・・



その犬はどのくらい生きますか?
そんな無神経な腹立たしい言葉も霞みの中に消えて行く。

「長生きですよ。 この犬はとても長生きなんですよ」

私はにこにこしながら、そんな風に言うことが出来るようになった。
大雑把すぎる一般論などどうでもいいのだ。

笑顔で言うと、不思議と安らかな心が満ちて来る。
傍らで聞いているZionに伝わりますように。
それが一番大切なこと。



Zionが初めて教会を訪れたのは、
まだ小さな頃、家のすぐ近くにあった高宮教会。
以来、今村教会は5つ目になった。

いつか、海を渡って行ってみたい。
あの教会のある所まで・・・


  

今日も会いに来てくれて、ありがとう!




ステンドグラスの神秘

2013-01-28 | 教会
寒い寒い冬の日、ドアを開けて入ると、
ステンドグラスの光に照らされました。
あったかい。

Zionは、少しの間、入口に佇みます。



いつも、人の思いを魂で感じとるから・・・
今日も、きっと心を合わせてくれるはず。

訪れる人々は、Zionに向かって言います。
「あなたもお祈りに来たのね」

Zionは、全て意味が分かっているかのように、応えます。
そう感じるのは、神秘的な光のせいでしょうか。

「お祈りってなあに?ハラへった~」
と思っていても。




今日も会いに来てくれて、ありがとう!




長崎の教会で

2012-03-12 | 教会
11日、長崎を訪れました。

坂と階段と石畳の街。
オランダ坂からグラバー園、平和祈念公園をお散歩しました。



1865年に建てられた大浦天主堂。



現存する日本最古のキリスト教会。



Zion、初めて来ました。



グラバー邸で。



そして、14時46分の鐘の音を聞いたのは、
浦上天主堂の前でした。



追悼と復興を願う人々が、次々と訪れていました。

「あなたも、お祈りに来たのね」
シスターがZionに話しかけてくれました。



真冬に戻ったような冷たい風。
ヨダレをたらしていなくて、よかった・・・

教会を後にしようとした時、
観光らしい女性が、Zionの頭を撫でに来ました。
そして、小さな声で言いました。
「ご利益を・・・」

これまでにも、神社などで年配の方に
手を合わせられたことがありますが・・・

単なる甘えのやんちゃ坊なんですが・・・とも言えず、
何故だか、こちらも神妙な面持ちになるのでした・・・


   

今日も会いに来てくれて、ありがとう!