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ネコ20匹を世話するため、本を書いたりバイク乗ったり。見えない世界ととその狭間を見ながら日常を生活する一人の男の物語。

猫とやまと

2012-11-27 19:56:22 | 『日常』



今日は外に猫が来ては日向ぼっこしていたので、秋の日差しの中の猫はなかなかに絵になるので写真でも、と思って撮影しておりましたが。
この猫は最近出入りしている猫で、



色合いのごちゃごちゃしているのは前からいるネコですね。




2匹ともなんとか一緒に居られるくらいには慣れているので、外ネコ撮影会という感じで。
これくらいの日差しが猫の毛の感じを柔らかくしてくれるのでいいかんじですね。



今日の空の色もいい色合いで。今日のそとは気持ちも良かったので薪ストーブ用の枝を用意しておこうかと思って、外でしばらく作業もしておりまして。
夏くらいにご近所付き合いで頂いた木々の枝の山をボキボキ折ってまとめておりましたが。



こんな感じで、小枝は小さく折って焚付に使っております。
斧と猫と枝と、ちょっと撮影してみました。
しかし、我が家の物置にはジェイソンが紛れ込んだら喜びそうなものが山盛りなんで。保管には気を使いますね。
通勤していたときは、台風とか大風の時はこの斧とノコギリをトランクに詰めて通勤してましたが。
道路が山の中なんで、たまに杉とか倒れていたりするもんでですね。



さて、今日はまたイラスト書きなどしてまして、こちらは石の精、というイメージで書いているものですね。
こういう存在の見えないものをイメージとしてイラストにするのは、自分のインスピレーションと、その石の雰囲気を自分なりに解釈する感覚でやってしまうのですが。
この場合「石の精」の存在を受け入れておかないとイメージ湧きませんので、「まあ、いるならこんな感じ」と思えるかどうかにもよりますよね。
ガイドみたいな存在も、そのあたりの感じがありますので。
見えてないものを見えるように感じる。という感じで。



ガイドワークでも言われたのですが、
「ガイドが自分自身、ということはどこからが「自分」でどこからが「ガイド」となるのでしょうか」
ということでしたが。
まあ、ガイド=自分、という話をよくしますので、こういうご質問は「いい質問されました!」という感じになりますね。

この場合は「自分」の概念をどこまで広げているか、どこまでを自分と認識するかで受け取り方が変化していきますが。
そもそも「自分」とはどういう状態の、どういうことを体験すると、それが「自分」と言えるのか。
「自分」とはなんなのか?

これを一回考えて見る必要もありますよね。
議論してみるとなかなか面白いネタになると思いますよ。
人それぞれに基準が違うと思いますので。

で、私の場合、今回お答えしたのは
「感情が動く範囲が、自分」
という感じですか。
怒り、悲しみ、憤り、いろいろとありますが。何かを見て、感じた時に「感情」が動く時、その時が「自分の境界線」に触れた時かな、と思っております。

エヴァふうに言うとATフィールドですか。
感情が動く時は、自分の中にある何かが反応したという事で。
自分の認識が広がると、それだけ自分の世界が広がるという感じですかね。
なので、認識、気づきが増えれば増えるほど、自分の感じられる世界が明確になってきて。
その中に自分がいることに気づいて。
人の言葉に腹を立てた時には、自分の何かがその人の言葉で刺激されたので。
その言葉をくれた人と、自分のあいだに境界がある、ということがわかりますし。
言葉に感動したり、嬉しい気持ちを共有したら、共有した人々も同じ「自分」の範囲で境界線を引いてもいいいと思いますし。
自分の境界線、というのは実はよく考えると「どこからが自分?」となってしまうので、真剣に考え出すと日夜思考することになってしまいそうですが。
とりあえず「感情」の動く範囲が自分と区切っておくと、とりあえずの境界線にはなりますかね。

ガイドの存在も、その言葉に心動かされ、その存在に感情が豊かに刺激されたら、そこにガイド=自分の境界線を見つけて見るといいのかもしれないな、と思ったりします。

私の場合は他人という概念は人と共有の認識を得るときには普通に使いますが。
意識の上では、他人というのは存在しなくて。全て自分の意識が映し出された存在しか世の中には存在していない。
とも思うこともありまして。そうなると、意識の上では他人というのは存在しなくなって。
であれば、それを自分と呼ぶこともできるのではないか。

とか考え出すと概念の話になっていくので。
ま、その時の都合のいい、説明して理解しやすい概念と、説明をその都度していければいいのかなとも思います。

世の中は一つの見方だけではありませんからね。たくさんの物の見方が共存して今を作り上げてますので。
その微妙な折り重なり具合がなんとも複雑な模様を綴っているような気がします。

最後に山の写真ですが。こちらは右側に月が登ってきてますね。







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6 コメント

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まるの日さん、こんにちは。 (りんパパ)
2012-11-28 06:12:52
 秋の木漏れ日の中で、ネコちゃんのんびりお昼寝ですね。
 まるの日さんの、お家がとても居心地がいいのですね。

 見えない物もあるのだよ。
 この世は、自らの意識が作っていると言われています。
 上手く行かないからと、社会を責めるのではなくて、自らの行いを改めるですかね。
返信する
おはよう。 (さき)
2012-11-28 09:18:00
良い朝だね。
十九世紀までは、「宗教」及び「哲学」は、
「科学」←(窮極(きゅうきょく)的には「法則」つまり「真(まこと)の理(ことわり)」)から独立した信条の上に成立ち得たかも知れない。
しかし二十世紀梨の、しかもその後半からの宗教及び哲学は、
科学から独立して独断独善的信条を説くことは出来ないのである。
科学は次第に進歩して物質の窮極的姿が分子?原子ではなく、
ついに「不可視(ふかし)の神秘のもの」であることを明らかにしたのであると同時に、
「宗教する」又は「哲学する」と云うことは
単に科学を離れて讃美歌(さんびか)に陶酔(とうすい)したり、
自我意識に酔って自己に都合よく解釈を捻曲(ねじま)げ、
机(概)上の空論をこねくり廻(まわ)したりすることではなくなって、
現実的効果によって、
その教条又は理論の正しさが実証せられなければならぬように進歩して来たのである。
斯(か)くて科学はおのずから哲学及び宗教に近づいて来たと同時に
哲学及び宗教は科学に接近して来たと言い得(う)るのである。
この意味に於(お)いて、科学、哲学、宗教は各々(おのおの)手を携(たずさ)えて人生に貢献(こうけん)しなければならないのである。

 存在は「実在」より来たる法則(知性)によって成立っているのであるから
それはすでに、何でもアリのデタラメなものではないのである。
デタラメ何でもアリなものは、
自我(自意識)の仮作(けさ)したものであり、
それを指して空想、または妄想、あるいは幻想というのである。

 そこに科学なき哲学、科学なき宗教、
そして“実証的価値”なき哲学及び宗教は、

それが如何(いか)に巧(たく)みに説かれていようとも

空論であり、
 “ 論理の遊戯(ゆうぎ) ”である。

その意味に於いて、最近代の科学を学び取り入れて、
生命の神秘を解明せんとしたものであると同時に、

人間が此(こ)の地上に生れて来た使命を知らしめ、

今まで「生」を呪(のろ)い又は其の意義を疑っていた人々に
真の人生の意義と価値とを知らしめ、
 生き甲斐(がい)(甲斐とは力の意)を与えんがために行なわれるものなのである。

その意味に於いて遊戯ではない真の力を持つ哲学は人生哲学であり、幸福哲学であるのである。
 存在の本質、生命の本質は一体何であるか。
それに就(つ)いて多くの宗教的天才が啓示によって解明し、
哲学的天才が思索によって道を開き、
科学的天才が深き観察と計算と理論づけとによって
確乎(かくこ)とした「真理」に“今”まさに到達しつつあるのである。
そのいずれもは互いに孤立(こりつ)することは出来ない。
またどんな天才も、
先人の業績を無視して、一(はじめ)から築き上げることも出来ない。
ましてデタラメじゃ…幼稚(すみません)
真理と云うものは或る時代の或る人にのみ独占さるべきものではないのである。
人類は先人の業績の上に更(さら)に自己の業績を積み重ねて進むのである。
私がここに語るところの真理は決して私一個の創作ではないのである。
年代も知ることの出来ない古き時代の印度(インド)のユガ(ヨガ)の哲学者が説いたところや、
釈迦(しゃか)の佛教(ぶっきょう)、耶蘇(やそ)(キリスト)の啓示や、ロッピー(ロバート A モンロー)、
諸々の古聖の所説に近代の心霊学及びヘミシンク、科学を素材として、
最(もっと)も平易(へいい)なる文字(もんじ)をもって哲学を語り、
人生を語り、
生き甲斐を語り、
運命の神秘を語り、
生命が何処(いずこ)より来(きた)り、
何処に到るかを説こうとしたものである。

敢(あえ)て「百万人のための哲学」と云う。
その所以(ゆえん)は、
哲学というものは難解なる文字を使用しなければ説くことが出来ないものだと、
スピリチュアルというものは隠された秘密の神秘主義で「デタラメ」でよくわからないものだと
思われていた
従来の型を破って、
哲学の最も深奥(しんおう)なる問題を、全然難解な哲学的スピ的用語を羅列(られつ)しないで、
平易に通俗語(バカ、アホ、笑)をもって百万人にわかるように説こうと企(くわだ)てたからである。
尤も、平易になり得たのは、頭から文章をもって書き綴(つづ)らないで、
耳できいてもわかるように喋り言葉で記しているからでもある。(バカアホと笑)
斬新なところがあるならば、
それはその素材ではなくて
その素材の取扱い方と解釈を通して
人間が此の世に生れ来った意義を明らかにし得るようにした点である。
互いに審判(さば)きあっているようではね。
返信する
なんかみんな偉そうな事言って響かないの。 (みい)
2012-11-28 11:40:29
難しい事読んで、かえって嫌な気持ちになったわ。

お父さんとお母さんを見ているのと同じ気持ちなの。
ああじゃなきゃいけない、こうじゃなきゃいけないって。

自分はたいしたことないのにうるさいの。

私はただ、愛して欲しいだけ。

そう思ったの思い出した。
返信する
さて何故この世には愛が少ないのだろうか? (さき)
2012-11-28 22:53:11
それはあなたのように「愛して欲しい」、「欲しい、欲しい」と亡者ばかりが集っているからである。
天国のスプーンやら割り箸やらの例えは有名であろう。
願望実現でも同じことであろうと思う。
「自(おの)が他人(ひと)にせられんと欲(ほっ)するがごとく他人にもなせ」
でありまして、決して自分が外(ほか)から「愛されている」或いは「金満に溢(あふ)れている」と
“ 思考の中で夢想 ”することではないのです。
あのね私だって「愛されたい」のですよ。
皆が求めていたら
では、一体誰が「愛してくれる」のですか??

妄想を去り既(すで)にある
至福無限の実相(ホントの)世界を観なさい。
それを見に行くためのヘミシンクなのではないのですか。
また現象においても
あなたはすでに愛されている筈です。
愛を受けているはずです。
あなたの好き勝手に「愛」をねじまげてはいませんか?
文字を書けるし、インターネットにもアクセス出来ている。
オムツを換えたのは誰ですか?ご飯は?…
「今ここ」に愛があるではありませんか?
あなたはいまここに居ないのです。
「ここではない」「どこか」どこにあるとも知れないあの世へゆかれている。
さらにここにこうして私が返答している、
これは愛ではないですか。そうですか。
 「純真な幼児(おさなご)」と幼稚(ようち)とは異なります。
そこらへんのガキをみてごらんよ。
よくもまぁ思い遣(や)りがあふれているなぁと思うし。
「オレ、アンタ“大?嫌い”だな自己中心的で。」
人間の不幸や病気や災厄を神罰とか仏罰、天罰とか考えて恐怖している人たちが随分たくさんあり、
また神罰や仏罰、バチが当たるぞ、などと云って脅して恐怖させて
自分の思想や宗教、教会へ誘い寄せる人もあるけれども、そんな人も信者も皆間違っている。
キリスト教聖書には「完(まった)き愛のあるところ恐怖なし」と示されてあり、
神は“完き愛”であると示されているから、
正しきキリスト教には恐怖の起こる筈もないし、
恐怖によって誘(いざな)い寄せる事も、寄せられることもあり得ないのである。
仏教に於いても、
般若心経(はんにゃしんぎょう)には
「{真頁}(転)倒夢想(てんどうむそう)を遠離(おんり)すれば恐怖なし」と示されている。
という意味は、恐怖、不満(みたされない)が起こるのはその信仰(世界を見る目)が正しき信仰でなく、
“信仰”の仮面をかぶった{真頁}倒夢想(アルとナイをひっくり返し、ごたまぜにしてる。)
であることの証拠であるという意味だよ。
 じゃあ{真頁}倒夢想というのは何を謂(い)うのかと言うと、
{真頁}倒とは、サカサマ、イカサマに引っ繰り返っていることであり、
夢想というのは、夢の中で思うことです。
夢の中で、どんなに愛が足りない愛が足りない愛ガ足リナイ、ナイナイ
「愛ガイチマーイ。愛ガニマーイ…」
とまあ、これは業なのだ天罰なのだ神罰なのぢゃと
「夢を」見ても、
眼が醒(さ)めて見れば
“何じゃらホイ”あれは
“夢だったのかアァーーー!!”
と{口可}々大笑(かかたいしょう)するように、
  無いものを“在る” とサカサマに
思うのが夢の中の想いである。
またそして“ 本当に在るもの ”を、夢の中で
「それを失った!!」と思って大騒(おおさわ)ぎして、
やがて眼を醒まして見れば、
目の前にチャンと「失った筈」のもが、
失われずに“ある”のである。
嗚呼なんてバカなんでしょう。
 それだから、夢の中でみることは、
“ 無いもの ”を“ 有る ”と思い、
“ 有るもの ”を“ 無い ”と思ったりして、
有無が逆(さかさ)まに“何でもアリ”“どせ概念の違いで相入れない”“バレない!バレない!”に
{真頁}倒(倒錯、トチ狂ってる)しているのである。
それだから“夢想”の上に“{真頁}倒”という文字をつけて、
夢中に見るものが“有る”と“無い”とをサカサマに感じているのと同じように、
神の創造(つく)り給(たま)うたこの世界に於いて、
「本当は愛が無いことも、決して恐怖すべき何物もまた何事も存在しない」
のに、
そのナイモノを“有る”と思っている
有無逆転裁判した白日夢(はくじつむ)の想いを棄(す)てよ、
そうすれば愛がないなどと恐怖はなくなると般若心経は説いている訳である。
返信する
子供の意識なの。 (みい)
2012-11-28 23:22:49
さっきのは。

子供の頃よ。愛して欲しいと思ったのを思い出したの。

思い出しただけよ。今は大人だから。

あなたには理解できるでしょ。

私の子供の意識があなたの言葉に反応したの。

あなたのまるの日さんに対する態度で、親のスーパーエゴを思い出させてくれたの。

さきさんからスーパーエゴを感じて私が反応しちゃったの。それだけ。

私が感じたことよ。

おかげで、あー単なる昔のイメージだったわ、もうそんなスーパーエゴに縛られる必要なんか無いんだったわ、って子供の部分を癒す事ができたわ!


ありがとう、さきさん。

まるの日さんが、どんなコメントも否定しない、意識の大きさのお陰でもあるわ。
まるの日さん、ありがとう。
返信する
そっかそか良かった。 (さき)
2012-11-29 01:44:19
捨てゼリフを言うだけの人だと思ったから。良かったす。ありがとう。ちょんまげ。
みいちんの幸わせを!!
 それとそうだねっ!圭ちゃんの包容力はすごいよねっ。
お蔭さまだね!圭ちゃんも「まるの日」読者のみなみな様もありがちょんまげ。←素直になれない。
 一切の存在は、真にそれが実在するものである限り、
唯一(ただひと)つの神の創造なのだよ。
そしてね此の創造者が神である限り、
神は善であり、全であり、
無限の叡智者(えいち_しゃ)であるから、
その無限の叡智によってつくられたる此の世界にはさ
如向なる欠陥(けっかん)もなく、矛盾(ムジュン)もなく、
 すべてのもの互いに相(あい)扶(たす?扶助フジョ。)け相補(おぎな)い相睦(むつ)みて(仲睦まじい)
完全に調和したところの十全(じゅうぜん)の世界であるほかはあり得ないのだよ。
だから私たちが心の眼をひらいてサカサマタバサの夢想を去り、
其の存在の実相を“ 直視(じきし) ”すればね、
“ 本来存在しない ”ところのすべての“闇” “悪”は消え、
病いは癒え、
争いは無くなり、
ひとりとして乏(とぼ)しき者なく、
ひとつとして醜(みにく)きものなく、
ひとりとして憎(にく)むひといない
至福無限の実相世界が、あなたの住むいまここに現実世界となって
あなたの眼前に展開するに相違ない。
だって“今だもって”私たちがホントに居るのは“ソコ”なのだから。
夢からさめなさい
妄想を去れ!!
既に今此処、実現している、あなたの住む現実世界が、
善美をきわめた至福の無限の実相世界そのままなのである。
今、至福無限の善美の世界を眼前に視、心歓喜すること無限なりなり。
「与えよさらば与えられん」ですよ。
「自他一体ですさ」。
誰かを活かすことを
実際に誰かにやってあげなきゃ!
ね、みいちんならだいじよぶさ!
そのあったかハートを大切にしてネ
うれしいなっありがとうっ
返信する

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