今日は寒かったです。たぶんマイナス行ってましたね。
なので、風景の白い部分は全て「霜」です。
その拡大写真がこちら。
霜柱。阿蘇の霜柱は3センチ~5センチくらいあって。いつも子供の見送りに言っている妻が、「大阪から越してきた小学生達は、歩くと地面がショリショリすると驚いていた」という感じのことを言っていて。
都会の子供はこの霜柱の感触を知らずに過ごしている人も多いのだろうな、と思ったりしておりましたが。
私はその頃、薪ストーブに薪をくべて外の寒さを家のなかから追い払っておりました。
霜と風景と、
兄の家の前で写真とってたらちょうど兄が出勤するために出てきたので、「薪ストーブはつけたのか?」という話題をふったら、どうやら夜に火をつけて楽しんではいる様子。
兄もついに、薪ストーブの虜になるのか。
なんて思いながら火のつけ方とかそういう話をちょっとしておりました。
いままでは兄が実家にいたので、ほぼ話すこともなかったのですが。近所に来たらそれなりに会話も生まれているので。
まあ、兄弟的には良かったのかも、と思うときはありますかね。子供の面倒も見てもらってるし。DVDも借りにいけるし。
さて、それで太陽が登ってくると、外に住み着いている猫たちが日向ぼっこに出てきて。
こんな感じでのたのたデッキで寝ております。
いい御身分ですな。
で、この新入りはどうやら捨て猫っぽくて。最初は警戒していたり、不安だったのかニャーニャー泣いてましたが。今はブラシでなでたりエサをやったりしていたら、すっかりうちの猫化してしまって。
只今外のねぐらで寝ているみたいです。
しかし、こいつオスなんですよね。
たぶん、来年の春にはこのあたりのボス猫に追い出されるかもしれないので。
そこが心配ではあります。病気持ち猫は家の中の仲間には入れてあげられませんので。
強く生きてもらうためにご飯をいっぱい食べてもらってますか。妻が猫たちが病気にならないようにと、外ネコのほうにいい餌やってます。
家の中のやつらは薪ストーブ前でごろごろごろごろしているだけで。いい生活してます。まったく。
今日は、やっとMINIが戻ってくるので。代車にガソリン入れるためにGSに行ってきましたら、ついついMINIの癖でエンジン切って窓開けようとしたり。ガソリンキャップあけ忘れたりしてしまいましたが。
妻の軽バンに乗ってもそういうことはしないんですけどね。代車だとついつい勝手が違うので戸惑ってしまいます。
で、お隣に行って車を受け取りに行ったのですが、
なんと、そこにはあの30万円するガンダムプラモデル。身長150センチ位のアレが置いてあるのです。
「おぉぉぉぉ、本物だよこれ!」
持ち主はそこに出入りしている営業さんの私物らしく。家には置いておけないのでお隣さんのところに置いてあるそうでして。
ついつい、可動部分を動かして遊んでしまいました。
「指動く!ビームライフル人間も持って遊べるサイズやん!」とか思いながら。
で、珍しいものを見て感動して、そして自分の車を見ると。
シートも新しいのに変わっていました。シートに輝く文字「RECARO」
ついに、レカロシート導入です。
まあ、なんでここでレカロかというと、話すと長くなるんですが。
そもそも、中古車屋さんで購入した時についていたメーカー不明のバケットシートが。
実は「車検に対応してない」ものであって。それで昨年は車検対応のシートと取り替えて車検受けて、という面倒なことしたので。次回までには「レカロシート買うぞ!」と思っておりましたので。車検時に一気に交換しております。
なので、今回の車検代は「驚きの価格になってますよ」とお隣さんに言われるくらいの金額ですが。大丈夫です。レカロ分はちゃんと貯金してましたんで。
だいたい、もともとノーマルのシートであったら、こういう手間は使わないのですが。
最初にシート変えた人、それも「得体の知れない」ネットで調べても出てこないメーカーのバケットシートをなぜに取り付けたのか?
それが謎ではありますが。
まあ、いろいろな人が使ってきたこの車。何か取り付けた人も意味があったのでしょう。
で、ふとレカロシートの乗り心地を試している時に思い浮かんだのが、これは過去世と業の話に似ているな。
と思ったところ。
前の持ち主(過去世)がシートを変えてしまったばかりに。次の次の代の私(今世)がお金を使ってシートを変えないといけなくなって。
これを、前世からの「カルマ」といえばそう言える気もします。
私の代で、前世のカルマを解消した、そのために労力を使って。
となる感じでもありますかね。
しかし、見方を変えてみると。
このバケットシートがついていたから、私はこのMINIのところに案内されてきたのですし(2年前の2月の記事。私の事故の部分参照)。
「シートがホールド性のいいものだったから、私は事故っても無傷だった。だから次乗る車はシートがいいやつがいい。」
ということを考えて中古車屋さんにいったら、案内されたのはこのMINI。
その当時はシートのメーカーとか車検未対応とかわかんなかったので。バケット状のホールド性の良さそうな椅子を見て。
「こ、これはいいかも。」
で、MINIで屋根のサンルーフ開くし。ガイドの導き、羽のマークもあるし(2年前の2月のブログ参照)。
と思って買ってしまったわけです。
つまり、このシートが変えてあったから私はこれを買ってしまった(まだローンが半分以上残ってますが)のであって。
そう考えると、過去世の所業(シートを交換していた、ということ)があったから、いまの私がMINIと共にあるのであって。
そして、私はレカロシートというものを手に入れて。
考え方のよっては、「過去世のおかげで、いまの自分はこんな楽しみが得られている!」とも言えると思います。
この場合、シートを変えていたのは「カルマ」なんでしょうかね?
なんだか前世のカルマとかいうと、なんだか「悪いこと?」みたいな思いと「解消しないといけない」と思うのと「次回に持ち越しちゃいかんかな?」と思ってしまいそうになるものですが。
それがあったからこそ、いまの自分の楽しみもある。
と思えれば、そらは「いい経験」であって、いまの自分を形作る一つの要素であるわけでして。
そう考えると、カルマとか、そういうものを考える必要は実は無くて、自分の今感じる「やりたいこと、楽しいと思われること」に意識を向けていたら、自然とそういうものが解消されて行くような気がしますけどね。
MINIのシートの場合。私が「やっぱ金勿体ないし。シートこのままでいいや。」と思って車検をこのシートで通してくれそうな中古車さんに行っていたら、レカロの乗り心地の良さに気づかずに。
そして隣に巨大ガンプラがあるのも知らずに過ごしていたのかもしれません。
やること全てに意味が合って。それは過去世、未来生、そして別次元のすべての自分とのつながりの中でも意味があって。
なんて思っていくと、今の楽しみが全てにつながっている気がしますので。
なんか、ちょっとでも「おもろいこと」をやっていくといいのかな、と思っております。
で、せっかくレカロシートになったので。「峠でも攻めるか!」ということで車で5分の俵山へ行ってきまして。
ちょいちょいっと走ってみましたら、まあ、乗り心地の違うこと。びっくりしましたね。
今までのバケットシートが「安物」であったことがよく分かりました。
まず車の変な振動を拾わない。体が安定する。カーブも怖くない。
よって、気がつくと「80キロ出てた」という感じになってて。
シート変えるだけで、こんなにも乗り心地違うのかと感動しましたね。この感動は、MINIに純正がついていたら味わえなかったものですので。
お金はかかりましたが、それ以上の発見と感動を得られましたね。
みんなかレカロ、レカロ言うのもわかりました。
で、早速MINIクーパーにレカロシート載せた写真をとってましたが。
峠とMINI
風車とMINI
MINIとレカロとミクと。
こないだ妻がとってきたミククッションはMINIの座席に入ることになりまして。
後ろには金しゃちスーツの頭と猫のぬいぐるみが乗っております。
だんだん、サロンと同じく車の中もカオスになってきそうな気配。
ステッカーはまだ貼ってませんので。そういう車にはなる予定はありません。
MINIは痛車にしてもあんましかっこよくないので。
2012年新作ヘミシンクCDのバラ売りは一律1800円にしておりますので、新作だからといって特別扱いはしません。
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やはり、握手会に行って実物ぱるると握手しなければ。。。それから、AVではなく、実際に風俗に行く。現実が一番、大事です。
コメント欄でまるの日さんは愛との繋がりについて語られていましたが、僕は空を悟ると執着がなくなる、すなわち、涅槃に至ると思っています。最後は
どれだけ努力しても何も残らないのに(空なのに)一生懸命、執着して労力を注ぐ。
仏法ではなく、プラユキさんではなく、ミャンマーの仏教に触れて欲しかったんです。タイとは手法が大きく違いますから。
やはりね、奥さんの誕生日を祝っても、最後は別れるし。あの可愛い、ぱるるがお婆さんになるなんて想像もつかないんですよ。
霜柱、子供の頃は上を歩いて遊んだものです。
今は、ほとんど見かけませんね。
そのねこちゃん、元気に育ってくれると良いですね。
外に住んでいると、危険も多いですから。
でも、昔はねこちゃんは、外でも家でも自由に行動できたのにね。
ちなみに、我が家のネコちゃんも、家猫ちゃんです。
リフレッぇシュ!
業は結論だけいってしまえば、
「業は無い!」のひと言です。
大体、キリスト教も仏教も「業を超越(こえ)ること」を発願としているのであるから
自由自在になって当たり前であって
そうできないものは
そんなのウソっこ仏教耶蘇教だ。
遊びにしかみえない。
生死を掛けた辛い思いをした、或いはしている人居るのに
「この世はゲーム」
「楽“しめた”者勝ち!」
「弱肉強食バンザイ」……
て、きこえるよ。
圭ちゃんて実は選民思想派?
えらばれたものが…
優雅ね。
「業カルマなんて有りません。」
それで一元論の根拠なんだけど、
昔からこの宇宙の根源は「一」であると認められているよね、
しかし、その「一」が何もの??であるかということについては色々の解釈がある。
唯物(ゆいぶつ)論者は、宇宙根源は物質であるというのであるよ。
最初に物質と云うそれ自身存在するもの
-----その中に色々のエネルギーや作用をそれ自身でもっている所の或(あ)る物------が存在し、
それが色々に結合したり分離したりして一切のものが生じたのであると説くのです。
この唯物論に多少相似たもので、
宇宙の根源は「エネルギー」であるという唯エネルギー説がある。
この説では、物質をばエネルギーの運動の一形式として現れたものであるという。
これはやや生命論に似ているのだが、
宇宙の根源のエネルギーを“ 機械的なもの ”と見ている点で生命論と相違(そうい)し、
唯物論に極めて近接しているものということができますね。
次に所謂(いわゆ)る唯心論と云うものがありますね。
この説では世界の根源は、「心」であって物質及び力は、
その根源なる「心」の中に思い浮べられたる観念(かんねん)にすぎないというのです。
心が万物の創造者であって、物質及び力は心の表現であると観るのである。
所が(いや人物じゃないからね)唯心論者が、
「心」というものを人格の属性(ぞくせい)と見るとき、
その宇宙根源なる「心」を、
人格的な神であるとみるに到(いた)るのでして
ここに唯神論を生ずる。
宗派によってその神の性質に多少異(こと)なる見解をもつようだけど、
ともかく智情意(ち_じょう_い)をそなえている
“ 人格的な存在 ” (神) が宇宙の本源であるというのが唯神論である。
質問を受けたことがあるのだけど、
「あなたはこの世界は神さまによって造られたのだというけれども、
私はこの世界は“ 自然にある ”のだと思う。
太陽も地球も“ 自然にある ”のであって、
人間も自然に生れたのである。
何も神さまなんていうものはないのである。」といわれた。
こういうのは“ 自然発生論者 ”であります。
然(しか)しその「目然」というものは何を意味するのか
よく内省(ないせい)もして見ないし、
検討(けんとう)もしてみない種類の
原始人的な素朴(そぼく) primitive な考えをもった人達であり、
こういう人は随分多いのです。
又ある論者は大生命というものが実在していて、そこから
一切の生命が生れて来たのであるというのです。
これは唯神論者の一種に属するといっていいのだろうね。
結局は凡(あら)ゆる世界観は「第一原因者」を想定するのです。
ともかく以上のように、色々の哲学、宗教又は科学的見解があるにせよ、
この形ある世界はその「第一原因」があるのであって
吾々の肉眼に見えている世界は「結果」の世界であるという点に於いて一致しているのであります。
即(すなわ)ち物質と名づけるにせよ、
エネルギーと名づけるにせよ、
心と名づけるにせよ、
自然と名づけるにせよ、
大生命と名づけるにせよ、
(ハアハァ汗)
この世界は、
その名称の如何(いかん)にかかわらず、
一つの原因から生れたということに於いては一致しているのであって、
結局これらは 「一元論」 ということができるのです。
そこでこういうことが言えるのですね。
すべての目にみえる存在の奥には、
「“一つのもの”」
が存在すると云うことであるのですな。
総(すべ)ての現象ある形、力、エネルギー、法則、等々は、
その
「唯一(ゆいいつ)のもの」
から発生したものであるということであるのである。
人格的な神をたてる所の宗教に於いては、
創造者と被造物(ひぞうぶつ)
光と闇
神と悪魔
などとを“対立”せしめて二元論的に説かれている様なものも
あるのですけれども、
““ その神が絶対者 ””
どんな資源も存在していないのですから、
結局世界を造った所の資材もエネルギーも
「神からのみ」来(きた)ったということができるのであって、
依然(いぜん)として一元論であるのであります。
もし物質というものが先にあって、
そこから神が自然に発生して、
その神が物質を材料として
この世界を造ったというのであるならば、
それは二元論であるというよりも、
物質の中に神が自然発生する根源があるのであるから、
それは唯物的一元論だということになるのでありますよ。
さてそれを究(つ)き詰(つ)めてゆくとですね
唯物論の正体を検討しました「チーンッ」
「一神論にあいなりました」
では唯物論者の唱える「物質」なるものはいかなるものであろうか、
それは一定の空間的容積をもち、
それを分割(au女子割風に)すれば
分子原子となる所のものである。
原子は窮極的(きゅうきょく_てき)単位であるところの微粒子(びりゅうし)であって、
極(きわ)めて微小であるとは言え、
尚一定の空間的容積をもっているのであって、
これらの集まりは物質又は物体であり、
世界はかかるものの集成によって形成せられているよっ!というのです。
かくの如く唯物論者の説くところの宇宙の本質としての「物質」は
大体古典物理学に於ける「物質」の定義であって、
それは「宇宙の本質は無限に多数なる元素であって、
同性質のものの相互結合が所謂(いわゆ)る
<生成>に際して実際に起っていることなのである。
各分子はその際それ自身としてはそのままである」
という古代ギリシアのアナクサゴラスの系統を引くものです。
然るにかくのごとき「物質」の概念は新興物理学の発達につれて
原子の構造も明らかとなり、
原子の核崩壊(かく_ほうかい)までも行われることになった結果、
宇宙の根源的微粒子と考えられていた物質は
結局崩壊して一種の放射線に変化し、
それが結局、
真空(しんくう)の中にとけこんでしまうことがわかったのである。
即ち物質は「無」(真空)にまで崩壊してしまうのであって、
「物質」とは永遠に存在する「微粒子」なる所の原子の集合であるというような
物質の概念はくだけてしまうことになったのであります。
従って過去の唯物論は唯物論のままでは成り立たなくなり、
原子崩壊の刹那(せつな)におびただしき
エネルギーを放射するという事実から
物質はエネルギーの具象化(ぐしょうか)せるものですな、
ということがわかる様になってしまったので、
唯物論はここに姿を変えて
“ 唯エネルギー ”論とならざるを得なくなったのであります。
原子を構成している陰電子(いんでんし)も陽電子(ようでんし)も
一種の電気エネルギーの一単位にすぎないということも物理学者によって
確認せらることになったのです。
されば最近の物理学は宇宙の本質をエネルギーなりと見る傾向に近づいていると
云う事が出来るのです。
さて、じゃあそのエネルギーの本体は何であろうか。
そのエネルギーが如何にして物質を構成する素粒子に変ずるのであろうか。
或(あるい)はその物質の原子が如何に崩壊してエネルギーに変ずるのであろうか。
それは滅多矢鱈(めった_やたらチーズはおいしいヨと)に偶然(ぐうぜん)又は恣意に
(しい、気ままで自分勝手なさま。論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。)
変化するのではないのである。
だから滅多矢鱈乾酪に原子の崩壊が行われて
原子爆弾や水素爆弾ができるというわけではないのです。
それは 法則 によるのです。
法則に従ってエネルギーが素粒子に変化し、
素粒子が結合して物質を発生し
““ 法則に従って ””
物質原子が崩壊してエネルギーに変化するのである。
即ちエネルギーを“あやつるもの”は「法則」である
ということができるのです。
「法則」というものは「滅多矢鱈チーry」(混沌きんとんChaos)←まさにカオスのナイアガラや!とは異(こと)なるのであって、
それは「秩序性(ちつじょ_せい)」を現わしているのである。
秩序性というものは「知性の」表現であって、
知性の勝(すぐ)れたるもの程(ほど)秩序性が勝れているのである。
文明人が野蛮人(やばんじん)よりも秩序性が勝れていることによっても
「秩序性は知性の表現」であることが分るのであります。
而(しか)して 知性というものは
「心の働き」である
秩序性がある所、知性があり、
知性のある所「心」があるということになって、
唯物論を深く切に検討して行くならば、
唯物論は唯エネルギー論となり、
唯エネルギー論は結局、
唯心論とならざるを得ないのである。
その第一原因者たる心がエネルギーを発生し、
物質を発生し、
それを驚くべき神秘精緻(せいち、精妙で緻密。)なる状態に組み合わせ、
結び合わせて「この"世界"の一切」のものが発生したといわなければならないのである。
もっともこの場合にいう所の「心」なるものは
人間の脳髄(のうずい)右脳だ左脳だいうものから出る「心」ではないのであって、
そこに注意をいただきたい。
太陽も地球も生れない前からそれを
““ 法則によって生みだした所の知性である所の心である。 ””
従ってこれを「人間の心」と区別するために
「宇宙の心」又は
「宇宙霊」
「宇宙心霊」
又はたんに「霊(れい)」
とよんでもいいのであります。
宗教家はこれに「神」という名称を用いるのである。
結局ね、唯物論を深く切に真摯(しんし)な検討して行くときは
一神論となるのであります。
「甘露(かんろ)の法雨(ほうう)」には、「神は宇宙を貫(つらぬ)く法則」とかかれてある。
リフレッぇシュ!
業は結論だけいってしまえば、
「業は無い!」のひと言です。
大体、キリスト教も仏教も「業を超越(こえ)ること」を発願としているのであるから
自由自在になって当たり前であって
そうできないものは
そんなのウソっこ仏教耶蘇教だ。
遊びにしかみえない。
生死を掛けた辛い思いをした、或いはしている人居るのに
「この世はゲーム」
「楽“しめた”者勝ち!」
「弱肉強食バンザイ」……
て、きこえるよ。
圭ちゃんて実は選民思想派?
えらばれたものが…
優雅ね。
「業カルマなんて有りません。」
それで一元論の根拠なんだけど、
昔からこの宇宙の根源は「一」であると認められているよね、
しかし、その「一」が何もの??であるかということについては色々の解釈がある。
唯物(ゆいぶつ)論者は、宇宙根源は物質であるというのであるよ。
最初に物質と云うそれ自身存在するもの
-----その中に色々のエネルギーや作用をそれ自身でもっている所の或(あ)る物------が存在し、
それが色々に結合したり分離したりして一切のものが生じたのであると説くのです。
この唯物論に多少相似たもので、
宇宙の根源は「エネルギー」であるという唯エネルギー説がある。
この説では、物質をばエネルギーの運動の一形式として現れたものであるという。
これはやや生命論に似ているのだが、
宇宙の根源のエネルギーを“ 機械的なもの ”と見ている点で生命論と相違(そうい)し、
唯物論に極めて近接しているものということができますね。
次に所謂(いわゆ)る唯心論と云うものがありますね。
この説では世界の根源は、「心」であって物質及び力は、
その根源なる「心」の中に思い浮べられたる観念(かんねん)にすぎないというのです。
心が万物の創造者であって、物質及び力は心の表現であると観るのである。
所が(いや人物じゃないからね)唯心論者が、
「心」というものを人格の属性(ぞくせい)と見るとき、
その宇宙根源なる「心」を、
人格的な神であるとみるに到(いた)るのでして
ここに唯神論を生ずる。
宗派によってその神の性質に多少異(こと)なる見解をもつようだけど、
ともかく智情意(ち_じょう_い)をそなえている
“ 人格的な存在 ” (神) が宇宙の本源であるというのが唯神論である。
質問を受けたことがあるのだけど、
「あなたはこの世界は神さまによって造られたのだというけれども、
私はこの世界は“ 自然にある ”のだと思う。
太陽も地球も“ 自然にある ”のであって、
人間も自然に生れたのである。
何も神さまなんていうものはないのである。」といわれた。
こういうのは“ 自然発生論者 ”であります。
然(しか)しその「目然」というものは何を意味するのか
よく内省(ないせい)もして見ないし、
検討(けんとう)もしてみない種類の
原始人的な素朴(そぼく) primitive な考えをもった人達であり、
こういう人は随分多いのです。
又ある論者は大生命というものが実在していて、そこから
一切の生命が生れて来たのであるというのです。
これは唯神論者の一種に属するといっていいのだろうね。
結局は凡(あら)ゆる世界観は「第一原因者」を想定するのです。
ともかく以上のように、色々の哲学、宗教又は科学的見解があるにせよ、
この形ある世界はその「第一原因」があるのであって
吾々の肉眼に見えている世界は「結果」の世界であるという点に於いて一致しているのであります。
即(すなわ)ち物質と名づけるにせよ、
エネルギーと名づけるにせよ、
心と名づけるにせよ、
自然と名づけるにせよ、
大生命と名づけるにせよ、
(ハアハァ汗)
この世界は、
その名称の如何(いかん)にかかわらず、
一つの原因から生れたということに於いては一致しているのであって、
結局これらは 「一元論」 ということができるのです。
そこでこういうことが言えるのですね。
すべての目にみえる存在の奥には、
「“一つのもの”」
が存在すると云うことであるのですな。
総(すべ)ての現象ある形、力、エネルギー、法則、等々は、
その
「唯一(ゆいいつ)のもの」
から発生したものであるということであるのである。
人格的な神をたてる所の宗教に於いては、
創造者と被造物(ひぞうぶつ)
光と闇
神と悪魔
などとを“対立”せしめて二元論的に説かれている様なものも
あるのですけれども、
““ その神が絶対者 ””
リフレッぇシュ!
業は結論だけいってしまえば、
「業は無い!」のひと言です。
大体、キリスト教も仏教も「業を超越(こえ)ること」を発願としているのであるから
自由自在になって当たり前であって
そうできないものは
そんなのウソっこ仏教耶蘇教だ。
遊びにしかみえない。
生死を掛けた辛い思いをした、或いはしている人居るのに
「この世はゲーム」
「楽“しめた”者勝ち!」
「弱肉強食バンザイ」……
て、きこえるよ。
圭ちゃんて実は選民思想派?
えらばれたものが…
優雅ね。
「業カルマなんて有りません。」
それで一元論の根拠なんだけど、
昔からこの宇宙の根源は「一」であると認められているよね、
しかし、その「一」が何もの??であるかということについては色々の解釈がある。
唯物(ゆいぶつ)論者は、宇宙根源は物質であるというのであるよ。
最初に物質と云うそれ自身存在するもの
-----その中に色々のエネルギーや作用をそれ自身でもっている所の或(あ)る物------が存在し、
それが色々に結合したり分離したりして一切のものが生じたのであると説くのです。
この唯物論に多少相似たもので、
宇宙の根源は「エネルギー」であるという唯エネルギー説がある。
この説では、物質をばエネルギーの運動の一形式として現れたものであるという。
これはやや生命論に似ているのだが、
宇宙の根源のエネルギーを“ 機械的なもの ”と見ている点で生命論と相違(そうい)し、
唯物論に極めて近接しているものということができますね。
次に所謂(いわゆ)る唯心論と云うものがありますね。
この説では世界の根源は、「心」であって物質及び力は、
その根源なる「心」の中に思い浮べられたる観念(かんねん)にすぎないというのです。
心が万物の創造者であって、物質及び力は心の表現であると観るのである。
所が(いや人物じゃないからね)唯心論者が、
「心」というものを人格の属性(ぞくせい)と見るとき、
その宇宙根源なる「心」を、
人格的な神であるとみるに到(いた)るのでして
ここに唯神論を生ずる。
宗派によってその神の性質に多少異(こと)なる見解をもつようだけど、
ともかく智情意(ち_じょう_い)をそなえている
“ 人格的な存在 ” (神) が宇宙の本源であるというのが唯神論である。
質問を受けたことがあるのだけど、
「あなたはこの世界は神さまによって造られたのだというけれども、
私はこの世界は“ 自然にある ”のだと思う。
太陽も地球も“ 自然にある ”のであって、
人間も自然に生れたのである。
何も神さまなんていうものはないのである。」といわれた。
こういうのは“ 自然発生論者 ”であります。
然(しか)しその「目然」というものは何を意味するのか
よく内省(ないせい)もして見ないし、
検討(けんとう)もしてみない種類の
原始人的な素朴(そぼく) primitive な考えをもった人達であり、
こういう人は随分多いのです。
又ある論者は大生命というものが実在していて、そこから
一切の生命が生れて来たのであるというのです。
これは唯神論者の一種に属するといっていいのだろうね。
結局は凡(あら)ゆる世界観は「第一原因者」を想定するのです。
ともかく以上のように、色々の哲学、宗教又は科学的見解があるにせよ、
この形ある世界はその「第一原因」があるのであって
吾々の肉眼に見えている世界は「結果」の世界であるという点に於いて一致しているのであります。
即(すなわ)ち物質と名づけるにせよ、
エネルギーと名づけるにせよ、
心と名づけるにせよ、
自然と名づけるにせよ、
大生命と名づけるにせよ、
(ハアハァ汗)
この世界は、
その名称の如何(いかん)にかかわらず、
一つの原因から生れたということに於いては一致しているのであって、
結局これらは 「一元論」 ということができるのです。
そこでこういうことが言えるのですね。
すべての目にみえる存在の奥には、
「“一つのもの”」
が存在すると云うことであるのですな。
総(すべ)ての現象ある形、力、エネルギー、法則、等々は、
その
「唯一(ゆいいつ)のもの」
から発生したものであるということであるのである。
人格的な神をたてる所の宗教に於いては、
創造者と被造物(ひぞうぶつ)
光と闇
神と悪魔
などとを“対立”せしめて二元論的に説かれている様なものも
あるのですけれども、
““ その神が絶対者 ””
リフレッぇシュ!
業は結論だけいってしまえば、
「業は無い!」のひと言です。
大体、キリスト教も仏教も「業を超越(こえ)ること」を発願としているのであるから
自由自在になって当たり前であって
そうできないものは
そんなのウソっこ仏教耶蘇教だ。
遊びにしかみえない。
生死を掛けた辛い思いをした、或いはしている人居るのに
「この世はゲーム」
「楽“しめた”者勝ち!」
「弱肉強食バンザイ」……
て、きこえるよ。
圭ちゃんて実は選民思想派?
えらばれたものが…
優雅ね。
「業カルマなんて有りません。」
それで一元論の根拠なんだけど、
昔からこの宇宙の根源は「一」であると認められているよね、
しかし、その「一」が何もの??であるかということについては色々の解釈がある。
唯物(ゆいぶつ)論者は、宇宙根源は物質であるというのであるよ。
最初に物質と云うそれ自身存在するもの
-----その中に色々のエネルギーや作用をそれ自身でもっている所の或(あ)る物------が存在し、
それが色々に結合したり分離したりして一切のものが生じたのであると説くのです。
この唯物論に多少相似たもので、
宇宙の根源は「エネルギー」であるという唯エネルギー説がある。
この説では、物質をばエネルギーの運動の一形式として現れたものであるという。
これはやや生命論に似ているのだが、
宇宙の根源のエネルギーを“ 機械的なもの ”と見ている点で生命論と相違(そうい)し、
唯物論に極めて近接しているものということができますね。
次に所謂(いわゆ)る唯心論と云うものがありますね。
この説では世界の根源は、「心」であって物質及び力は、
その根源なる「心」の中に思い浮べられたる観念(かんねん)にすぎないというのです。
心が万物の創造者であって、物質及び力は心の表現であると観るのである。
所が(いや人物じゃないからね)唯心論者が、
「心」というものを人格の属性(ぞくせい)と見るとき、
その宇宙根源なる「心」を、
人格的な神であるとみるに到(いた)るのでして
ここに唯神論を生ずる。
宗派によってその神の性質に多少異(こと)なる見解をもつようだけど、
ともかく智情意(ち_じょう_い)をそなえている
“ 人格的な存在 ” (神) が宇宙の本源であるというのが唯神論である。
質問を受けたことがあるのだけど、
「あなたはこの世界は神さまによって造られたのだというけれども、
私はこの世界は“ 自然にある ”のだと思う。
太陽も地球も“ 自然にある ”のであって、
人間も自然に生れたのである。
何も神さまなんていうものはないのである。」といわれた。
こういうのは“ 自然発生論者 ”であります。
然(しか)しその「目然」というものは何を意味するのか
よく内省(ないせい)もして見ないし、
検討(けんとう)もしてみない種類の
原始人的な素朴(そぼく) primitive な考えをもった人達であり、
こういう人は随分多いのです。
又ある論者は大生命というものが実在していて、そこから
一切の生命が生れて来たのであるというのです。
これは唯神論者の一種に属するといっていいのだろうね。
結局は凡(あら)ゆる世界観は「第一原因者」を想定するのです。
ともかく以上のように、色々の哲学、宗教又は科学的見解があるにせよ、
この形ある世界はその「第一原因」があるのであって
吾々の肉眼に見えている世界は「結果」の世界であるという点に於いて一致しているのであります。
即(すなわ)ち物質と名づけるにせよ、
エネルギーと名づけるにせよ、
心と名づけるにせよ、
自然と名づけるにせよ、
大生命と名づけるにせよ、
(ハアハァ汗)
この世界は、
その名称の如何(いかん)にかかわらず、
一つの原因から生れたということに於いては一致しているのであって、
結局これらは 「一元論」 ということができるのです。
そこでこういうことが言えるのですね。
すべての目にみえる存在の奥には、
「“一つのもの”」
が存在すると云うことであるのですな。
総(すべ)ての現象ある形、力、エネルギー、法則、等々は、
その
「唯一(ゆいいつ)のもの」
から発生したものであるということであるのである。
人格的な神をたてる所の宗教に於いては、
創造者と被造物(ひぞうぶつ)
光と闇
神と悪魔
などとを“対立”せしめて二元論的に説かれている様なものも
あるのですけれども、
““ その神が絶対者 ””
リフレッぇシュ!
業は結論だけいってしまえば、
「業は無い!」のひと言です。
大体、キリスト教も仏教も「業を超越(こえ)ること」を発願としているのであるから
自由自在になって当たり前であって
そうできないものは
そんなのウソっこ仏教耶蘇教だ。
遊びにしかみえない。
生死を掛けた辛い思いをした、或いはしている人居るのに
「この世はゲーム」
「楽“しめた”者勝ち!」
「弱肉強食バンザイ」……
て、きこえるよ。
圭ちゃんて実は選民思想派?
えらばれたものが…
優雅ね。
「業カルマなんて有りません。」
それで一元論の根拠なんだけど、
昔からこの宇宙の根源は「一」であると認められているよね、
しかし、その「一」が何もの??であるかということについては色々の解釈がある。
唯物(ゆいぶつ)論者は、宇宙根源は物質であるというのであるよ。
最初に物質と云うそれ自身存在するもの
-----その中に色々のエネルギーや作用をそれ自身でもっている所の或(あ)る物------が存在し、
それが色々に結合したり分離したりして一切のものが生じたのであると説くのです。
この唯物論に多少相似たもので、
宇宙の根源は「エネルギー」であるという唯エネルギー説がある。
この説では、物質をばエネルギーの運動の一形式として現れたものであるという。
これはやや生命論に似ているのだが、
宇宙の根源のエネルギーを“ 機械的なもの ”と見ている点で生命論と相違(そうい)し、
唯物論に極めて近接しているものということができますね。
次に所謂(いわゆ)る唯心論と云うものがありますね。
この説では世界の根源は、「心」であって物質及び力は、
その根源なる「心」の中に思い浮べられたる観念(かんねん)にすぎないというのです。
心が万物の創造者であって、物質及び力は心の表現であると観るのである。
所が(いや人物じゃないからね)唯心論者が、
「心」というものを人格の属性(ぞくせい)と見るとき、
その宇宙根源なる「心」を、
人格的な神であるとみるに到(いた)るのでして
ここに唯神論を生ずる。
宗派によってその神の性質に多少異(こと)なる見解をもつようだけど、
ともかく智情意(ち_じょう_い)をそなえている
“ 人格的な存在 ” (神) が宇宙の本源であるというのが唯神論である。
質問を受けたことがあるのだけど、
「あなたはこの世界は神さまによって造られたのだというけれども、
私はこの世界は“ 自然にある ”のだと思う。
太陽も地球も“ 自然にある ”のであって、
人間も自然に生れたのである。
何も神さまなんていうものはないのである。」といわれた。
こういうのは“ 自然発生論者 ”であります。
然(しか)しその「目然」というものは何を意味するのか
よく内省(ないせい)もして見ないし、
検討(けんとう)もしてみない種類の
原始人的な素朴(そぼく) primitive な考えをもった人達であり、
こういう人は随分多いのです。
又ある論者は大生命というものが実在していて、そこから
一切の生命が生れて来たのであるというのです。
これは唯神論者の一種に属するといっていいのだろうね。
結局は凡(あら)ゆる世界観は「第一原因者」を想定するのです。
ともかく以上のように、色々の哲学、宗教又は科学的見解があるにせよ、
この形ある世界はその「第一原因」があるのであって
吾々の肉眼に見えている世界は「結果」の世界であるという点に於いて一致しているのであります。
即(すなわ)ち物質と名づけるにせよ、
エネルギーと名づけるにせよ、
心と名づけるにせよ、
自然と名づけるにせよ、
大生命と名づけるにせよ、
(ハアハァ汗)
この世界は、
その名称の如何(いかん)にかかわらず、
一つの原因から生れたということに於いては一致しているのであって、
結局これらは 「一元論」 ということができるのです。
そこでこういうことが言えるのですね。
すべての目にみえる存在の奥には、
「“一つのもの”」
が存在すると云うことであるのですな。
総(すべ)ての現象ある形、力、エネルギー、法則、等々は、
その
「唯一(ゆいいつ)のもの」
から発生したものであるということであるのである。
人格的な神をたてる所の宗教に於いては、
創造者と被造物(ひぞうぶつ)
光と闇
神と悪魔
などとを“対立”せしめて二元論的に説かれている様なものも
あるのですけれども、
““ その神が絶対者 ””
リフレッぇシュ!
業は結論だけいってしまえば、
「業は無い!」のひと言です。
大体、キリスト教も仏教も「業を超越(こえ)ること」を発願としているのであるから
自由自在になって当たり前であって
そうできないものは
そんなのウソっこ仏教耶蘇教だ。
遊びにしかみえない。
生死を掛けた辛い思いをした、或いはしている人居るのに
「この世はゲーム」
「楽“しめた”者勝ち!」
「弱肉強食バンザイ」……
て、きこえるよ。
圭ちゃんて実は選民思想派?
えらばれたものが…
優雅ね。
「業カルマなんて有りません。」
それで一元論の根拠なんだけど、
昔からこの宇宙の根源は「一」であると認められているよね、
しかし、その「一」が何もの??であるかということについては色々の解釈がある。
唯物(ゆいぶつ)論者は、宇宙根源は物質であるというのであるよ。
最初に物質と云うそれ自身存在するもの
-----その中に色々のエネルギーや作用をそれ自身でもっている所の或(あ)る物------が存在し、
それが色々に結合したり分離したりして一切のものが生じたのであると説くのです。
この唯物論に多少相似たもので、
宇宙の根源は「エネルギー」であるという唯エネルギー説がある。
この説では、物質をばエネルギーの運動の一形式として現れたものであるという。
これはやや生命論に似ているのだが、
宇宙の根源のエネルギーを“ 機械的なもの ”と見ている点で生命論と相違(そうい)し、
唯物論に極めて近接しているものということができますね。
次に所謂(いわゆ)る唯心論と云うものがありますね。
この説では世界の根源は、「心」であって物質及び力は、
その根源なる「心」の中に思い浮べられたる観念(かんねん)にすぎないというのです。
心が万物の創造者であって、物質及び力は心の表現であると観るのである。
所が(いや人物じゃないからね)唯心論者が、
「心」というものを人格の属性(ぞくせい)と見るとき、
その宇宙根源なる「心」を、
人格的な神であるとみるに到(いた)るのでして
ここに唯神論を生ずる。
宗派によってその神の性質に多少異(こと)なる見解をもつようだけど、
ともかく智情意(ち_じょう_い)をそなえている
“ 人格的な存在 ” (神) が宇宙の本源であるというのが唯神論である。
質問を受けたことがあるのだけど、
「あなたはこの世界は神さまによって造られたのだというけれども、
私はこの世界は“ 自然にある ”のだと思う。
太陽も地球も“ 自然にある ”のであって、
人間も自然に生れたのである。
何も神さまなんていうものはないのである。」といわれた。
こういうのは“ 自然発生論者 ”であります。
然(しか)しその「目然」というものは何を意味するのか
よく内省(ないせい)もして見ないし、
検討(けんとう)もしてみない種類の
原始人的な素朴(そぼく) primitive な考えをもった人達であり、
こういう人は随分多いのです。
又ある論者は大生命というものが実在していて、そこから
一切の生命が生れて来たのであるというのです。
これは唯神論者の一種に属するといっていいのだろうね。
結局は凡(あら)ゆる世界観は「第一原因者」を想定するのです。
ともかく以上のように、色々の哲学、宗教又は科学的見解があるにせよ、
この形ある世界はその「第一原因」があるのであって
吾々の肉眼に見えている世界は「結果」の世界であるという点に於いて一致しているのであります。
即(すなわ)ち物質と名づけるにせよ、
エネルギーと名づけるにせよ、
心と名づけるにせよ、
自然と名づけるにせよ、
大生命と名づけるにせよ、
(ハアハァ汗)
この世界は、
その名称の如何(いかん)にかかわらず、
一つの原因から生れたということに於いては一致しているのであって、
結局これらは 「一元論」 ということができるのです。
そこでこういうことが言えるのですね。
すべての目にみえる存在の奥には、
「“一つのもの”」
が存在すると云うことであるのですな。
総(すべ)ての現象ある形、力、エネルギー、法則、等々は、
その
「唯一(ゆいいつ)のもの」
から発生したものであるということであるのである。
人格的な神をたてる所の宗教に於いては、
創造者と被造物(ひぞうぶつ)
光と闇
神と悪魔
などとを“対立”せしめて二元論的に説かれている様なものも
あるのですけれども、
““ その神が絶対者 ””