昨日はチベット展へ行った話しを書きましたが、九州国立博物館では常設展示も行っておりまして、それも見に行ってきました。
国宝級、重文級のものが何気に置いてあったりして、「やっぱ国立は違うんだなあ」と妙なところで関心したりして。火炎土器とか、遮光器土偶とかを見られて、古代の人々のデザインセンスの良さに感動しましたね。岡本太郎さんがインスピレーションを受けたのも理解できます。
他に、どこかからか出てきた(奈良か京都か?)金剛力士像が置いてありましたが、チベット展にあった精巧な神々の像に比べると、妙にデザインが狂っていたりして。
あの有名な金剛力士像に比べるとかなり見劣りする感じしましたね。
先に凄いものみると、ちょっと厳しいチェックを入れてしまったりします。
これ作った人も、未来の人間にブログでこんなこと言われるとは思ってもいなかったでしょうね。
あと、要所要所に人がこそっと座っているんですね。
つい、「この人たち、時給いくらでここに座っているんだろうか?」とか「この人たちは公務員だろうか?」とかそういういらん事にも目が行ってしまいましたね。
「ここは運営上利益は出ているのか?」とか考えてしまう性格になってしまいましたので。
見るだけでも楽しめる展示ですので、お近くの方はぜひ行かれてみてください。
私もヒマがあれば来たいところですね。土器の意識とか感じてみたいものです。
昨日は寝た子を担いで見学していたので、重くてそれどころではありませんでした。
20キロの重りを担いで博物館めぐりしているようなものですから。
まるで、スターウォーズ エピソードⅤのルークとヨーダの修行のような感じになってました。今回はこれでフォースを鍛えないといけなかったんでしょうかね?
で、今日の朝。雲間から彩雲が覗き、まるで虹色の羽を広げた存在が、雲の向こうを飛んでいる。そんな感じに見えました。
昨日の今日だったので、なんとなく神々の存在を意識した朝でしたね。
で、思ったのが「チベット的神界のようなものあるのかね?」ということ。
で、早速フォーカス25、6あたりの信念体形領域に向かうことに。
到着したのは、あの宮殿っぽいところのある場所。
そこに、あの何本も腕があったり、いくつも顔のある形で神々がいるのか?と思って回りをみましたら、案外普通な感じ。
なーんだ。と思っていると、解説してくれるお坊さんが登場。私を案内してくれるようです。
「あの格好は、そうれくらい超人的な動きができる事を表現しているのでして、実際に目の前に現れたらさすがに怖いでしょう。」
とお坊さんに言われました。そりゃそうです。
なので、この信念体形領域の神々は、わりと普通の人間の格好で現れています。その周囲では大勢の方々が出迎え、喜びの祈りをささげています。
あ、こういうのもいいもんだなあ。と思ったりして。
皆さんは、自分の信仰心があったので、このように神々と接する栄誉に授かったと思われている様子。実際にそうなんですよね。
そして、神々もいがいと気さくに応じていて、祈りのエネルギーの濃い空間です。
なので、『捕らわれ領域』というまったくマイナスイメージないですね。
この方々は、このままここにいても問題無いのですか?と私が聞くと、お坊さんは「ここで、向こうの世界の仕組みを徐々に学んでいく。そして、ある気付きを得たものがさらなる上へと昇華するのだよ。いわゆる悟りだね。」
と答えてもらいました。フォーカス27に行くまでの準備期間のようなイメージでしょうか?
ある特定の宗教に入っている人たちがこういう信念体形領域に来るのも十分意味のあることのようです。
で、ポタラ宮のような建物に案内され中に入ると、奥にはダライラマがいらっしゃいます。
あれ?じゃあ、今地上にいるのは?と聞くと、「ここに存在していてもなんの不思議も無い。魂は一つではないのだから。」というような事を言われました。
そして、ここでの生活は質素で誠実なイメージがあります。人々が平和に、祈りをささげる姿が多く見られます。
こういう生活もいいもんだなあ、とふと思いました。何も急いでフォーカス27に行く必要はないんですよね。ここである一定の悟りを開いて上に行く事も有りなのかなあと。
「人は、おのずと気付いてゆくものだよ。」
僧侶はそう言って微笑みました。
世界を変えるには、強力な指導者が現れる必要があると思い込んでいる人もいるみたいですが?と聞くと、人の意識一人ひとりが変化する事が一番の早道。そうやって指導者の出現は、一時的なインパクトを与える事はできても、その先が続かない。
と言われました。
「アセンションは、個人の波動を上げ、地球の波動を上げることで達成するといわれていますが、あなたはどう思われます?」と聞いてみると、にっこりと微笑んで、音叉を2本出してきました。
まず低い音の音叉を鳴らします。音が響きます低い波ですね。
続いて、高い音の音叉を鳴らします。高い波動が響きます。
そして、私を見て、「どうかな、何か変わったかい?」
と聞いてきます。私が何も変化しませんが。と言いますと、
「波長が変化する、とはこういう事だよ。今ここに存在している人々にとって、波長の高い低いはあまり関係ない。低い波長から高い波長まで、すべてを網羅できるものが次の段階へと進む。どちらかに偏っている波長の存在は、それができない。すべてに対応できる能力が必要。」
「じゃあ、すべての人が波動を上げることでいい未来が迎えられるというような話しは?」
「それは一つの見方であって、真理ではないよ。」
だそうです。お坊さんだけあって、回りくどい言い方を好みますね。
「君達は土くれより生まれし低い波動の肉体をまとい、魂の中には神と接する高い波動の部分も持っているではないか。いまさら、何をそのように高い波動を目指す必要があるのだろうね。」と言って微笑んでいます。
「自らの内にそのようなものが存在していることに、ただ気づけはいいのだから。」
だそうで。何か徳の高い話しを聞いている気がしてきました。
今まで、ずーっと宮殿の階段を上りつつ話しをしている感じです。かなり上まできていますが。
草原の景色が広がり、とても素晴らしい景観が目の前に広がります。
雲海も遠くに見えて、まさに天空の宮殿の雰囲気です。こうやって見ていくと、信念体形領域も悪い感じはしませんね。むしろ神々しい場所も多数あって、これはこれでありな気がします。
上のテラスにで、そういう風景を眺めながら「ところで、実際に救われないような人生を送っている方がいらっしゃいますが、そういう方はどうすればいいのでしょうか?」とお坊さんに聞いてみました。すると、
「救いを外に求めている限り、それはやってこない。」
と言って、自分の胸の前で手を握って開いて見せました。
「自らの内にあるものを外に出して、それを眺めてみる事だ。そうすることで、救いというものを見つけることができるようになる。」
「それを綺麗事という人もいるでしょうね。」
「最初は綺麗事でいい。何でもはじめてみない事には先に進まないのだから。まずは第一歩をそこからはじめてみてもいいのではないかな?」
「すべてを否定し、すべて何も動かなければ何も起こらない。」
と言います。そこで、「どうして人は救いを外に求めるのですか?」と聞くと、
「光と闇、陰と陽、その流れに価値基準を作った時に、人は救いを求める」
「“救い”とはなんですか?」
「大いなるものと対話を持とうと望む願い」
うーむ、なんだか分かるような分からないような。
「ところで、あなたは誰ですか?」
すると、お坊さんはにこっと微笑んで、
「私は“菩薩”をやらせてもらっている。」といいました。
そのへんのお坊さんかと思いきや、菩薩だったんですね。どうりで救いの話しになったわけです。
「救いを求める行動というのは、高次の存在との対話を図る手段なのだから、別に恥じ入る必要はない。」
と言われました。
こうやって、ふらっと信念体形領域を散策すると、こういうのも悪くないですね。
ちょっと捕らわれ領域に対する考えかた変わりました。
何でも 『捕らわれる=悪』では無いのですよね。勉強になりました。
国宝級、重文級のものが何気に置いてあったりして、「やっぱ国立は違うんだなあ」と妙なところで関心したりして。火炎土器とか、遮光器土偶とかを見られて、古代の人々のデザインセンスの良さに感動しましたね。岡本太郎さんがインスピレーションを受けたのも理解できます。
他に、どこかからか出てきた(奈良か京都か?)金剛力士像が置いてありましたが、チベット展にあった精巧な神々の像に比べると、妙にデザインが狂っていたりして。
あの有名な金剛力士像に比べるとかなり見劣りする感じしましたね。
先に凄いものみると、ちょっと厳しいチェックを入れてしまったりします。
これ作った人も、未来の人間にブログでこんなこと言われるとは思ってもいなかったでしょうね。
あと、要所要所に人がこそっと座っているんですね。
つい、「この人たち、時給いくらでここに座っているんだろうか?」とか「この人たちは公務員だろうか?」とかそういういらん事にも目が行ってしまいましたね。
「ここは運営上利益は出ているのか?」とか考えてしまう性格になってしまいましたので。
見るだけでも楽しめる展示ですので、お近くの方はぜひ行かれてみてください。
私もヒマがあれば来たいところですね。土器の意識とか感じてみたいものです。
昨日は寝た子を担いで見学していたので、重くてそれどころではありませんでした。
20キロの重りを担いで博物館めぐりしているようなものですから。
まるで、スターウォーズ エピソードⅤのルークとヨーダの修行のような感じになってました。今回はこれでフォースを鍛えないといけなかったんでしょうかね?
で、今日の朝。雲間から彩雲が覗き、まるで虹色の羽を広げた存在が、雲の向こうを飛んでいる。そんな感じに見えました。
昨日の今日だったので、なんとなく神々の存在を意識した朝でしたね。
で、思ったのが「チベット的神界のようなものあるのかね?」ということ。
で、早速フォーカス25、6あたりの信念体形領域に向かうことに。
到着したのは、あの宮殿っぽいところのある場所。
そこに、あの何本も腕があったり、いくつも顔のある形で神々がいるのか?と思って回りをみましたら、案外普通な感じ。
なーんだ。と思っていると、解説してくれるお坊さんが登場。私を案内してくれるようです。
「あの格好は、そうれくらい超人的な動きができる事を表現しているのでして、実際に目の前に現れたらさすがに怖いでしょう。」
とお坊さんに言われました。そりゃそうです。
なので、この信念体形領域の神々は、わりと普通の人間の格好で現れています。その周囲では大勢の方々が出迎え、喜びの祈りをささげています。
あ、こういうのもいいもんだなあ。と思ったりして。
皆さんは、自分の信仰心があったので、このように神々と接する栄誉に授かったと思われている様子。実際にそうなんですよね。
そして、神々もいがいと気さくに応じていて、祈りのエネルギーの濃い空間です。
なので、『捕らわれ領域』というまったくマイナスイメージないですね。
この方々は、このままここにいても問題無いのですか?と私が聞くと、お坊さんは「ここで、向こうの世界の仕組みを徐々に学んでいく。そして、ある気付きを得たものがさらなる上へと昇華するのだよ。いわゆる悟りだね。」
と答えてもらいました。フォーカス27に行くまでの準備期間のようなイメージでしょうか?
ある特定の宗教に入っている人たちがこういう信念体形領域に来るのも十分意味のあることのようです。
で、ポタラ宮のような建物に案内され中に入ると、奥にはダライラマがいらっしゃいます。
あれ?じゃあ、今地上にいるのは?と聞くと、「ここに存在していてもなんの不思議も無い。魂は一つではないのだから。」というような事を言われました。
そして、ここでの生活は質素で誠実なイメージがあります。人々が平和に、祈りをささげる姿が多く見られます。
こういう生活もいいもんだなあ、とふと思いました。何も急いでフォーカス27に行く必要はないんですよね。ここである一定の悟りを開いて上に行く事も有りなのかなあと。
「人は、おのずと気付いてゆくものだよ。」
僧侶はそう言って微笑みました。
世界を変えるには、強力な指導者が現れる必要があると思い込んでいる人もいるみたいですが?と聞くと、人の意識一人ひとりが変化する事が一番の早道。そうやって指導者の出現は、一時的なインパクトを与える事はできても、その先が続かない。
と言われました。
「アセンションは、個人の波動を上げ、地球の波動を上げることで達成するといわれていますが、あなたはどう思われます?」と聞いてみると、にっこりと微笑んで、音叉を2本出してきました。
まず低い音の音叉を鳴らします。音が響きます低い波ですね。
続いて、高い音の音叉を鳴らします。高い波動が響きます。
そして、私を見て、「どうかな、何か変わったかい?」
と聞いてきます。私が何も変化しませんが。と言いますと、
「波長が変化する、とはこういう事だよ。今ここに存在している人々にとって、波長の高い低いはあまり関係ない。低い波長から高い波長まで、すべてを網羅できるものが次の段階へと進む。どちらかに偏っている波長の存在は、それができない。すべてに対応できる能力が必要。」
「じゃあ、すべての人が波動を上げることでいい未来が迎えられるというような話しは?」
「それは一つの見方であって、真理ではないよ。」
だそうです。お坊さんだけあって、回りくどい言い方を好みますね。
「君達は土くれより生まれし低い波動の肉体をまとい、魂の中には神と接する高い波動の部分も持っているではないか。いまさら、何をそのように高い波動を目指す必要があるのだろうね。」と言って微笑んでいます。
「自らの内にそのようなものが存在していることに、ただ気づけはいいのだから。」
だそうで。何か徳の高い話しを聞いている気がしてきました。
今まで、ずーっと宮殿の階段を上りつつ話しをしている感じです。かなり上まできていますが。
草原の景色が広がり、とても素晴らしい景観が目の前に広がります。
雲海も遠くに見えて、まさに天空の宮殿の雰囲気です。こうやって見ていくと、信念体形領域も悪い感じはしませんね。むしろ神々しい場所も多数あって、これはこれでありな気がします。
上のテラスにで、そういう風景を眺めながら「ところで、実際に救われないような人生を送っている方がいらっしゃいますが、そういう方はどうすればいいのでしょうか?」とお坊さんに聞いてみました。すると、
「救いを外に求めている限り、それはやってこない。」
と言って、自分の胸の前で手を握って開いて見せました。
「自らの内にあるものを外に出して、それを眺めてみる事だ。そうすることで、救いというものを見つけることができるようになる。」
「それを綺麗事という人もいるでしょうね。」
「最初は綺麗事でいい。何でもはじめてみない事には先に進まないのだから。まずは第一歩をそこからはじめてみてもいいのではないかな?」
「すべてを否定し、すべて何も動かなければ何も起こらない。」
と言います。そこで、「どうして人は救いを外に求めるのですか?」と聞くと、
「光と闇、陰と陽、その流れに価値基準を作った時に、人は救いを求める」
「“救い”とはなんですか?」
「大いなるものと対話を持とうと望む願い」
うーむ、なんだか分かるような分からないような。
「ところで、あなたは誰ですか?」
すると、お坊さんはにこっと微笑んで、
「私は“菩薩”をやらせてもらっている。」といいました。
そのへんのお坊さんかと思いきや、菩薩だったんですね。どうりで救いの話しになったわけです。
「救いを求める行動というのは、高次の存在との対話を図る手段なのだから、別に恥じ入る必要はない。」
と言われました。
こうやって、ふらっと信念体形領域を散策すると、こういうのも悪くないですね。
ちょっと捕らわれ領域に対する考えかた変わりました。
何でも 『捕らわれる=悪』では無いのですよね。勉強になりました。
修復の作業が見れて面白いでした。
もう一人の友人は建物の管理で入ってますが、公務員だそうです。
菩薩さんの言葉は禅問答のようですね。
考えさせられます。
まるの日さんのブログはわかりやすいので大変助かります。これからもよろしくお願いいたします。
価値基準を作るとは、善悪を決めるということで、
そこから救いを求めるようになるとすると、
それ(価値基準を作ること)すらも「悪いこと」ではないのですか。。。
あ、それも価値基準を作ることで。。。
あ~~~また考えて見ます。
ありがとうございました。
おそらく、雲の薄い部分に夕日が透過して虹になっているんだろうなと思いましたが、天使が舞っているようにも見えました。
この気象現象自体は珍しいことではないらしいのですが、昔から吉兆だったようですね。
信念体系領域ですか。
フォーカス27に近いところでは、もう少しで抜けられるというレベルの魂が集っているのでしょうか。
信念体系領域が存在することにも何か意味があるのでしょうね。きっと。
でも「フォーカス27や35さえも我々高次の存在の側から見れば一種の信念体系領域なのだよ。君達にとっては違うがね。」なんていうオチは嫌ですよ。モンローさ~ん。
F27で観音菩薩にあって、いろいろ言われましたが、けっこうきついことを言われるので「ほんまに観音様かいな?」と思ったしだいです。まあ私自身も見直さなければならないことがたくさんあるのも事実ですが。
電車内で顔が涙でぐちゅぐちゅになってしまい、マスクでごまかしました。(新型の感染者と思われたかもしれませんが)
その後、生まれ変わり管理センター、健康管理センターなど、はしごしまして、いろいろお願いしてきました。生まれ変わり管理センターでは、RHさんというおばちゃんとお話しをしました。名前がアルファベット2文字なのは何か意味があるのですか?と聞くと、まあそういう流儀だから、ということでした。
今日のブログの話が菩薩だったので、なにかつながりを感じました。(キリスト教的天使、日本神話の神々はブログに出てきたのですが、仏教的なものはまだ出てきていなかったので、待っていました)
F27には仏教的なものがあまり出てこないのは、何か意味があるのでしょうね。一般的なヘミシンクでも、天使の話はたくさん出てきますが、菩薩の話は出てこないので。(以前のブログ記事では「エネルギーの系統が違う」と書いておられたように思いますが、どう違うのでしょうね)
どうも、私が異色の存在であることは理解しています。他の人と同じではつまらないので、それはそれで良いと思います。
全てのことにはいろんな見方があるので、一つの考えにとらわれないように気をつけないといけませんね。
「・・・ただ気付けばいい・・・」
「・・・眺めてみる事だ・・・」
悟りと救い、本当勉強になります。
でも、どうすればそれに気がつくことができるのでしょうか。本などを読めば、そうなのかと頭ではわかりますが、それに気が付く(実感する)ことができません。