今年7月に起こった神奈川県の障害者施設の『津久井やまゆり園』で19人もの死亡者を
出した事件で逮捕された植松聖容疑者の衝撃も冷めやらない内にまたしても同じ神奈川県の
大口病院で何者かにより点滴に界面活性剤が混入されて入院患者が死亡するという事件が起こった。
既に日本は2014年の段階で4人に1人が65歳以上の超高齢化社会に達して、社会保障費の
増大が懸念され、社会保障費の財政的な破たんは東京オリンピックの2020年を
過ぎた頃に訪れると予想されている。この2つの事件を見てみると社会保障費の増大により
財政を圧迫させる障害者や老人、病人は社会的な悪として見なされてしまっている。
2020年以後とされている財政破たんを前に、作為的に老人や病人を葬り去り社会保障費の増大を
防ごうとする働きかけが、闇で行われているように思う。
現代の姥捨て山のように喰い口減らしの為に死を選ばざる負えない状況を容認しているとしか
思えない所がある。
昔から助かる見込みの無い患者の延命行為を辞めてしまう場合があるとは噂に聞いていたが、
神奈川の二つの事件においては、それ以前に医療行為も介護さえも受けさせないものである。
犯行の動機として社会的な弱者が殺される事に財政面の合理性を唱えている。
大口病院の場合、犯行の内容が特定されているが、犯人は特定されていない。事件性があると
言えども殺人事件としては立件するのは難しいらしい。そしてこうした段階で警察が
捜査を始めてしまうことも疑問視しなくてはいけない。事件が行政的な立場の手中にある状態で
被害者家族は結論を待たなくてはいけない。警察が自発的に捜査しなければ、真実は闇に
葬り去られることになる。
警察の責任道義に基ずく自発的な捜査が十分に行われない場合、この大口病院の事件は行政に
黙認されていたとも考えられる。
どうにもこうにも元フジテレビアナウンサー長谷川豊の透析患者は自己責任論などは
今はバッシングの対象となっているが、しかし「弱者叩き」は何時かは普通に罷り通るように
なるだろう、少なくとも2020年以後に一刻の猶予も許さない状況にあると国民が
強く感化されれば、必要悪とばかりに更に「弱者叩き」は加速して、透析ばかりでなく、
高齢者の延命行為にも批判が出てくると十分に考えられる。
そればかりでは無く、独身者やニート生活保護者などにも厳しい指摘がされるだろう。
今でこそ生活保護は在日韓国人と結び付けられてカモフラージュされているが、
そこから在日韓国人の前提が消えて生活保護者なら誰でも批判の対象となる。
ネットの仮想現実の中から国粋主義が生活の場へフィードして現実的な排他主義に変わり
財政の将来的な不安を理由に納得する人も現れるかもしれない。
いや、実際はもう起きているかもしれない。こうした現実の排他主義が大口病院の事件と
同様に半ば黙認され、殺されまではしないものの、敬遠されたりヒドイ扱いを受ける。
ネットでの長谷川豊に対する批判炎上はあるが、世間ではネットのように一辺倒な炎上は
通用しない。現実社会では存在し得る考えだ。しかしそこで社会的な有効性を主張したり、
相手を貶すような扱いはタブー視されていてあくまでも本来ならば許される行為では無いとの
前置きがなければ、非常識とみなされる。ただそれだけの事でしかない。
今回の長谷川豊の透析患者は自己責任論によるブログ炎上は、どことなく用意されたような
内容であったので、長谷川豊本人ではなく、逆にネット情報に不信感が芽生えた。
このような事件が相次いで発生すると具体的に直面する問題から綺麗事で逃げるのではなく、
切実に向き合う時が来る。それだけは間違いの無い事だ。
出した事件で逮捕された植松聖容疑者の衝撃も冷めやらない内にまたしても同じ神奈川県の
大口病院で何者かにより点滴に界面活性剤が混入されて入院患者が死亡するという事件が起こった。
既に日本は2014年の段階で4人に1人が65歳以上の超高齢化社会に達して、社会保障費の
増大が懸念され、社会保障費の財政的な破たんは東京オリンピックの2020年を
過ぎた頃に訪れると予想されている。この2つの事件を見てみると社会保障費の増大により
財政を圧迫させる障害者や老人、病人は社会的な悪として見なされてしまっている。
2020年以後とされている財政破たんを前に、作為的に老人や病人を葬り去り社会保障費の増大を
防ごうとする働きかけが、闇で行われているように思う。
現代の姥捨て山のように喰い口減らしの為に死を選ばざる負えない状況を容認しているとしか
思えない所がある。
昔から助かる見込みの無い患者の延命行為を辞めてしまう場合があるとは噂に聞いていたが、
神奈川の二つの事件においては、それ以前に医療行為も介護さえも受けさせないものである。
犯行の動機として社会的な弱者が殺される事に財政面の合理性を唱えている。
大口病院の場合、犯行の内容が特定されているが、犯人は特定されていない。事件性があると
言えども殺人事件としては立件するのは難しいらしい。そしてこうした段階で警察が
捜査を始めてしまうことも疑問視しなくてはいけない。事件が行政的な立場の手中にある状態で
被害者家族は結論を待たなくてはいけない。警察が自発的に捜査しなければ、真実は闇に
葬り去られることになる。
警察の責任道義に基ずく自発的な捜査が十分に行われない場合、この大口病院の事件は行政に
黙認されていたとも考えられる。
どうにもこうにも元フジテレビアナウンサー長谷川豊の透析患者は自己責任論などは
今はバッシングの対象となっているが、しかし「弱者叩き」は何時かは普通に罷り通るように
なるだろう、少なくとも2020年以後に一刻の猶予も許さない状況にあると国民が
強く感化されれば、必要悪とばかりに更に「弱者叩き」は加速して、透析ばかりでなく、
高齢者の延命行為にも批判が出てくると十分に考えられる。
そればかりでは無く、独身者やニート生活保護者などにも厳しい指摘がされるだろう。
今でこそ生活保護は在日韓国人と結び付けられてカモフラージュされているが、
そこから在日韓国人の前提が消えて生活保護者なら誰でも批判の対象となる。
ネットの仮想現実の中から国粋主義が生活の場へフィードして現実的な排他主義に変わり
財政の将来的な不安を理由に納得する人も現れるかもしれない。
いや、実際はもう起きているかもしれない。こうした現実の排他主義が大口病院の事件と
同様に半ば黙認され、殺されまではしないものの、敬遠されたりヒドイ扱いを受ける。
ネットでの長谷川豊に対する批判炎上はあるが、世間ではネットのように一辺倒な炎上は
通用しない。現実社会では存在し得る考えだ。しかしそこで社会的な有効性を主張したり、
相手を貶すような扱いはタブー視されていてあくまでも本来ならば許される行為では無いとの
前置きがなければ、非常識とみなされる。ただそれだけの事でしかない。
今回の長谷川豊の透析患者は自己責任論によるブログ炎上は、どことなく用意されたような
内容であったので、長谷川豊本人ではなく、逆にネット情報に不信感が芽生えた。
このような事件が相次いで発生すると具体的に直面する問題から綺麗事で逃げるのではなく、
切実に向き合う時が来る。それだけは間違いの無い事だ。