今日で白河の看護学校の授業が終わりました。
全14コマを毎週2コマずつ、7週間かけてやってきました。
2ヶ月弱ですが、私の講義におつきあいくださりありがとうございました。
これからもたまに授業に関係するような話を書いていくつもりですので、
授業は終わってしまいましたが、ブログはぜひ見に来てください。
というか、第1回目のときにいただいた質問にまだ全部答え切れていませんので、
(もうみんなどんな質問を書いたか忘れてしまっているかもしれませんが…)
いやでも見に来ざるをえないでしょう。
そして、なにか気になる記事があったらコメントを書いていただけるとうれしいです。
根本先生もぜひコメントをお書き込みください、ペンネームでかまいませんので
。
さて、今回の質問は最初から、最終回の授業が終わってからお答えしようと思っていたものです。
正確には次のような質問でした。
「Q.先生が例えば入院したり、病院に来た場合、どんな看護師がいたらうれしいですか?」
「倫理学」 の授業では理想の看護師像などについても考えてもらったわけですが、
自分なりの理想像をはっきりさせるのと同時に、
患者になるかもしれない人たちにこういうことを聞いておくというのも大事なことですね。
福島大学の教員志望の皆さんもぜひ見習って、
子どもたちや、お子さんをお持ちの方々にこういう質問をしてみるようにしましょうね。
さて、まずは看護師に限らず、すべての職業の人に当てはまることですが、
私はどこに行こうと、笑顔で楽しそうに働いている人に担当してもらいたいと思います。
これは飲み屋の店員さんでも、コンビニのレジの人でも、すべてに当てはまります。
以前に 「天の呼び声」 という文を書きましたが、
それがその人にとっての天職かどうかは別として、
自分を担当してくれる人には明るく楽しく働いていてほしいもんだと思います。
もちろん人間ですから、そうそう毎日毎日楽しいというわけにはいかず、
ツライのをガマンしてイヤイヤ働いているという日があっても仕方ないと思いますが、
できればそういう人が自分の担当者にはなってほしくないなあと思います。
可能であれば、どんなにツライときでも笑顔で対応できるくらいのプロであってほしいですね。
特に看護師さんに会うのは、こちらが病気で元気をなくしているときと決まっていますので、
そういうときに超ブルーなつまらなさそうに働いている人には出会いたくないものです。
看護師に限っての注文ということで言うと、
授業でも言ったように、看護師には哲学者であってもらいたいと思います。
去年、看護教員の養成講座が終わったときに、
「教育者の教育」 というブログを書き、
その中で自分の理想の死に方について語ったことがあります。
私のように福島の看護学校で教員をやっていると、
なにかのときに福島の病院に搬送されると、
自分の教え子 (あるいは教え子の教え子) が担当してくれることもあるんじゃないかと思って、
それはけっこう楽しみですね。
「小野原先生、お久しぶりです。
○○看護学校でお世話になった□□です。
今でもときどきブログを拝見させていただいてますよ。
先生は、ウソをつき続けられるのはイヤだとおっしゃっていたので、
全部ぶっちゃけちゃいますが、先生の今回の病気は△△で、ちょっと厳しい状況です。
私たちが先生の最期の時間にお付き合いさせていただきますので、
思い残すことなくやりたいことを全部やって、
人生をフィニッシュさせるお手伝いをさせてください。」
なんて言われたら感激して泣いちゃうだろうなあ
。
ぼくが自分の死を受容できなくてみんなに当たり散らしていたりしたら、
「小野原先生、先生はキュブラー・ロスの死の受容の5段階を、
知識としては知っていらっしゃるはずなのに、
それでもやっぱりちゃんと否認や抑鬱などの段階を順番に踏まれていくのですね」
なんてたしなめてくれたりして。
そしてある程度、受容できるようになってきたら、
足繁くベッドサイドに来てくれて、
「先生、また法律変わっちゃいましたけど、脳死・臓器移植ってどう思います?」
とかいろいろ哲学・倫理学の話を持ちかけてくれたり、
たぶんその段階では私は、積極的に小中学校や看護学校や福島大学に出かけて、
自分の死を題材に生徒たちや学生たちにデス・エデュケーションをしたがると思うので、
有休を取って車椅子を押して学校に連れて行ってくれて、
ぼくが授業するのを手伝ってくれたりして。
うーん、妄想は広がりますね。
そんなふうに自分の教え子にケアしてもらいながら死んでいけたら、
それは私の理想の死に方ではないでしょうか。
どんな看護師がいたらうれしいですかという質問からは逸脱してしまったかもしれませんが、
最終的に次のようにお答えしておくことにいたしましょう。
A.自分が搬送された先の病院に、
哲学者のような看護師へと見事に成長を遂げた自分の教え子がいてくれたら、
これ以上うれしいことはありません。
白河近辺の病院に私がお世話になる確率はめちゃくちゃ低いと思いますので、
白河看護学校の皆さん、ぜひとも福島市内の病院も受けてみるようお願い申し上げます。
全14コマを毎週2コマずつ、7週間かけてやってきました。
2ヶ月弱ですが、私の講義におつきあいくださりありがとうございました。
これからもたまに授業に関係するような話を書いていくつもりですので、
授業は終わってしまいましたが、ブログはぜひ見に来てください。
というか、第1回目のときにいただいた質問にまだ全部答え切れていませんので、
(もうみんなどんな質問を書いたか忘れてしまっているかもしれませんが…)
いやでも見に来ざるをえないでしょう。
そして、なにか気になる記事があったらコメントを書いていただけるとうれしいです。
根本先生もぜひコメントをお書き込みください、ペンネームでかまいませんので
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さて、今回の質問は最初から、最終回の授業が終わってからお答えしようと思っていたものです。
正確には次のような質問でした。
「Q.先生が例えば入院したり、病院に来た場合、どんな看護師がいたらうれしいですか?」
「倫理学」 の授業では理想の看護師像などについても考えてもらったわけですが、
自分なりの理想像をはっきりさせるのと同時に、
患者になるかもしれない人たちにこういうことを聞いておくというのも大事なことですね。
福島大学の教員志望の皆さんもぜひ見習って、
子どもたちや、お子さんをお持ちの方々にこういう質問をしてみるようにしましょうね。
さて、まずは看護師に限らず、すべての職業の人に当てはまることですが、
私はどこに行こうと、笑顔で楽しそうに働いている人に担当してもらいたいと思います。
これは飲み屋の店員さんでも、コンビニのレジの人でも、すべてに当てはまります。
以前に 「天の呼び声」 という文を書きましたが、
それがその人にとっての天職かどうかは別として、
自分を担当してくれる人には明るく楽しく働いていてほしいもんだと思います。
もちろん人間ですから、そうそう毎日毎日楽しいというわけにはいかず、
ツライのをガマンしてイヤイヤ働いているという日があっても仕方ないと思いますが、
できればそういう人が自分の担当者にはなってほしくないなあと思います。
可能であれば、どんなにツライときでも笑顔で対応できるくらいのプロであってほしいですね。
特に看護師さんに会うのは、こちらが病気で元気をなくしているときと決まっていますので、
そういうときに超ブルーなつまらなさそうに働いている人には出会いたくないものです。
看護師に限っての注文ということで言うと、
授業でも言ったように、看護師には哲学者であってもらいたいと思います。
去年、看護教員の養成講座が終わったときに、
「教育者の教育」 というブログを書き、
その中で自分の理想の死に方について語ったことがあります。
私のように福島の看護学校で教員をやっていると、
なにかのときに福島の病院に搬送されると、
自分の教え子 (あるいは教え子の教え子) が担当してくれることもあるんじゃないかと思って、
それはけっこう楽しみですね。
「小野原先生、お久しぶりです。
○○看護学校でお世話になった□□です。
今でもときどきブログを拝見させていただいてますよ。
先生は、ウソをつき続けられるのはイヤだとおっしゃっていたので、
全部ぶっちゃけちゃいますが、先生の今回の病気は△△で、ちょっと厳しい状況です。
私たちが先生の最期の時間にお付き合いさせていただきますので、
思い残すことなくやりたいことを全部やって、
人生をフィニッシュさせるお手伝いをさせてください。」
なんて言われたら感激して泣いちゃうだろうなあ
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ぼくが自分の死を受容できなくてみんなに当たり散らしていたりしたら、
「小野原先生、先生はキュブラー・ロスの死の受容の5段階を、
知識としては知っていらっしゃるはずなのに、
それでもやっぱりちゃんと否認や抑鬱などの段階を順番に踏まれていくのですね」
なんてたしなめてくれたりして。
そしてある程度、受容できるようになってきたら、
足繁くベッドサイドに来てくれて、
「先生、また法律変わっちゃいましたけど、脳死・臓器移植ってどう思います?」
とかいろいろ哲学・倫理学の話を持ちかけてくれたり、
たぶんその段階では私は、積極的に小中学校や看護学校や福島大学に出かけて、
自分の死を題材に生徒たちや学生たちにデス・エデュケーションをしたがると思うので、
有休を取って車椅子を押して学校に連れて行ってくれて、
ぼくが授業するのを手伝ってくれたりして。
うーん、妄想は広がりますね。
そんなふうに自分の教え子にケアしてもらいながら死んでいけたら、
それは私の理想の死に方ではないでしょうか。
どんな看護師がいたらうれしいですかという質問からは逸脱してしまったかもしれませんが、
最終的に次のようにお答えしておくことにいたしましょう。
A.自分が搬送された先の病院に、
哲学者のような看護師へと見事に成長を遂げた自分の教え子がいてくれたら、
これ以上うれしいことはありません。
白河近辺の病院に私がお世話になる確率はめちゃくちゃ低いと思いますので、
白河看護学校の皆さん、ぜひとも福島市内の病院も受けてみるようお願い申し上げます。
質問に答えてくださり、ありがとうございます。
私も笑顔は本当に大切だと思います。
笑顔で感じのいい人と接しただけで、こっちまで笑顔になって幸せな気持ちになります。
そんな笑顔ができるよう今日から心がけようと思います。
先生の理想の死に方を読んで、人が考えることは本当に千差万別だと思いました。
それに応えられるようになるのはとても難しいと思いますが、だからこそ考え続けて、学び続けることを忘れないようにします。
まだまだ看護師にもなっていない卵のなかの卵ですが、先生の授業のお陰で哲学者のような看護師になれると思います!というか、なります!
短い間でしたが、二ヶ月間ありがとうございました
前に医療におけるズレの話をしたこともありましたが、
自分は告知を望んでいるものの、告知されたらどうなるか読み切れないところはあります。
理想としては泰然と死を受容して、それを素材に淡々と死の教育を続けていたいと思いますが、
けっこうメソメソ泣いたり、看護師さんに当たり散らしたりするんじゃないかという気もします。
そんなカッコいい姿であれ、カッコ悪い姿であれ、
成長した皆さんに看取ってもらえるといいのですが…。
いろんなわけのわからない患者さんがいるだろうと思うので、
ひとりひとりの違いに寄り添える看護師になってください。
できるだけ遠くに向かってボールを投げましょう!