これは 「戦争と平和の倫理学」 を取っている学生さんからもらった質問です。
私の授業の内容とは直接関係ありませんが、道徳教育か何かの授業で問題になったらしいです。
どうお答えしましょうか。
意外とめんどっちい質問です。
西洋倫理学を専攻する者としての答えはある程度はっきりしていますが、
日本思想史や東洋思想史を専攻する人はたぶん別の答え方をするでしょうし、
うち (元教育学部である人間発達文化学類) の場合は、
日本の教育における 「道徳の時間」 と 「高校公民科・倫理」 のことも念頭に置く必要があります。
ああ、めんどっちい。
ちなみにWeb上の 「YAHOO!知恵袋」 のような質問コーナーにも、
「倫理と道徳の違いは何ですか?」 みたいな質問がいくつかアップされ、
それに素人の方々が各人の勝手な語感のみにもとづいて回答したりしていますが (例えばココ)、
その内容はほとんどデタラメです。
とりあえず、西洋倫理学研究者の立場からお答えしておきましょう。
A.訳語としての 「道徳」 と 「倫理」 は語源に遡れば同義なので違いはありません。
思想家がそれぞれ独自の定義をすることによって使い分けたりしています。
「道徳」 は moral の訳語であり、moral の語源はラテン語の mores です。
「倫理」 は ethics (または ethic) の訳語であり、その語源はギリシア語の ethos です。
mores も ethos もどちらも 「慣習、習俗」 という意味なので元はと言えば同義なのです。
moral も ethics もその 「慣習、習俗」 という意味から発して、
しだいに、ある集団の中で守られるべきルールや行動様式全般のことを指すようになりました。
フランス語にもドイツ語にも英語にも、
ラテン語起源の moral に当たる語とギリシア語起源の ethics に当たる語の両方があるわけですが、
まったく同じ意味の言葉が2つあるのはもったいないので、
思想家は自分なりに定義して両者を使い分けたりしました。
例えば、カントは Moral を広い意味の言葉とし、
Moral (=道徳) の中に Recht (=法) と Ethik (=倫理) が含まれると定義しました。
ところが、ほぼ同時代のヘーゲルは逆に Ethik (=倫理) のほうを広い意味の語と定め、
Ethik (=倫理) の中に個人道徳である Moral と客観的な法体系である Recht が含まれる、
というふうにカントとは逆転させて使いました。
同時代の2人がまったく逆の使い方をしても許されるくらい、
元はと言えばどちらの語も大して違いはなかったということなわけです。
日本語の道徳と倫理にもほぼ同じようなことが言えます。
ですので、例えば辞書で 「倫理」 を引くとこう書いてあります。
「りんり 【倫理】
1 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「―にもとる行為」「―観」「政治―」
2 「倫理学」の略。」
このように 「倫理」 の説明の中に 「道徳。モラル」 と記されていたりします。
しかし、基本的に違いはないながらも、日本語としての道徳と倫理には、
ちょっとしたニュアンスの違いがあるように感じる人も多いでしょう。
そこで逆に辞書で 「道徳」 を引いてみると、その中には 「倫理」 という言い換えは出て来ず、
こんなふうに説明されていました。
「どうとく 【道徳】
1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。
3 《道と徳を説くところから》 老子の学。」
1の後半部分が重要です。
「法律と異なり、…内面的原理として働く」 と書かれています。
これは、ヘーゲル的な狭い意味での用語法になります。
辞書ではなく百科事典で 「道徳」 を調べてみるとこんな記述もありました。
「どうとく【道徳】
こんにちの用法では倫理という語と根本的な相違はない。倫とは仲間を意味し,人倫といえば,畜生や禽獣のあり方との対比において,人間特有の共同生活の種々のあり方を意味する。倫理とは,そういう人倫の原理を意味し,道徳もほぼ同様であるが,いずれかといえば原理そのものよりも,その体得に重点がある。すなわち,道とは人倫を成立させる道理として,倫理とほぼ同義であり,それを体得している状態が徳であるが,道徳といえば,倫理とほぼ同義的に用いられながらも,徳という意味合いを強く含意する。」
道徳と倫理は 「根本的な相違はない」 と言いながらも、
道徳は 「(倫理を) 体得している状態」 という意味合いが強いと書かれています。
先ほどの辞書で言う 「内面的原理」 というのもそういう意味合いを指しているのかもしれません。
やはり道徳というのはヘーゲルが言うように個人道徳のニュアンスが強くなるのでしょうか。
私はカント主義者なので、ヘーゲル的な使い方はあまり好きではないのですが、
一般の方々の語感を考えるとそうとばかりも言っていられず、
昨年出版した 『高校倫理からの哲学3 正義とは』 に書いた文章のなかでは、こう説明しました。
「『倫理』 という語の語源は、西洋語では 『習慣、慣習』 であるが、ここでは漢字の 『倫理』 についてのみ確認しておくことにしたい。『倫』 という文字は 『仲間』 とか 『人びとの集まり』 を表している。『絶倫』 というのは、仲間うちでずば抜けてすぐれているという意味である。『理』 という文字は、もともと 『玉石を磨いたときに現れる筋のある模様』 を表していた。そこから、人間関係の中で通すべき 『筋目』、つまり、決まりごと、ルール、義務、といったようなものも意味するようになった。したがって、『倫理』 とは、人びとが集まってきたときに必ずできる決まりやルールのことを意味するのである。習慣とか礼儀作法とか義務とか道徳とか法律とか、そういったものはすべて 『倫理』 である。
(中略)
『倫理』 という語のほかに 『道徳』 という語もある。この2つはほぼ同じ意味のことばである。『道徳』 という語の西洋語の語源もやはり 『習慣、慣習』 であるが、それよりも広く、『人のふみ行うべき道』 全般を指すことばとして使われている。なお現代では、『道徳』 は個人の内面的なものに限定し、『法律』 のように外的強制力をもつものとは区別するような使われ方が増えてきている。思想家によって語の定義の仕方は異なっているのだが、ここでは、習慣や道徳のような内面的なものも、法律のような外面的なものも合わせて、人びとの集まりの中に必ずできる決まりやルールなどをすべて 『倫理』 と呼ぶことにしたい。」
この文章は倫理と道徳の違いを説明したというよりも、カントやヘーゲルの場合のように、
自分としてはこの論文ではこういうふうに使い分けることにしますよと宣言した文章になっています。
けっきょくのところ、それぐらいの違いしかありませんよというのが、
今回の質問に対するお答えになるのではないでしょうか。
あまり役に立たない答えでゴメンね。
P.S.
ところで、先ほどの辞書の 「倫理」 の定義の中の2に、
「『倫理学』 の略」 と書かれていました。
私は一貫して 「倫理」 と 「倫理学」 はまったく違うものだと主張していますが、
一般には 「倫理」 とだけ言えばそれは 「倫理学」 のことを指すという理解もあるようです。
そう考えてみると、小中学校では 「道徳」 の時間が置かれていて、
子どもに 「善悪をわきまえて正しい行為をなすために守り従わねばならない規範」 を 「体得」 させる、
ということが目指されているのに対して、
高校では公民科という教科の中に 「倫理」 という科目が置かれて、
「人として守り行うべき道」 や 「善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの」 が、
はたしてどのようなものであるのかを考えさせることを目的としている、
というのは適切な使い分けであるのかもしれません。
私の授業の内容とは直接関係ありませんが、道徳教育か何かの授業で問題になったらしいです。
どうお答えしましょうか。
意外とめんどっちい質問です。
西洋倫理学を専攻する者としての答えはある程度はっきりしていますが、
日本思想史や東洋思想史を専攻する人はたぶん別の答え方をするでしょうし、
うち (元教育学部である人間発達文化学類) の場合は、
日本の教育における 「道徳の時間」 と 「高校公民科・倫理」 のことも念頭に置く必要があります。
ああ、めんどっちい。
ちなみにWeb上の 「YAHOO!知恵袋」 のような質問コーナーにも、
「倫理と道徳の違いは何ですか?」 みたいな質問がいくつかアップされ、
それに素人の方々が各人の勝手な語感のみにもとづいて回答したりしていますが (例えばココ)、
その内容はほとんどデタラメです。
とりあえず、西洋倫理学研究者の立場からお答えしておきましょう。
A.訳語としての 「道徳」 と 「倫理」 は語源に遡れば同義なので違いはありません。
思想家がそれぞれ独自の定義をすることによって使い分けたりしています。
「道徳」 は moral の訳語であり、moral の語源はラテン語の mores です。
「倫理」 は ethics (または ethic) の訳語であり、その語源はギリシア語の ethos です。
mores も ethos もどちらも 「慣習、習俗」 という意味なので元はと言えば同義なのです。
moral も ethics もその 「慣習、習俗」 という意味から発して、
しだいに、ある集団の中で守られるべきルールや行動様式全般のことを指すようになりました。
フランス語にもドイツ語にも英語にも、
ラテン語起源の moral に当たる語とギリシア語起源の ethics に当たる語の両方があるわけですが、
まったく同じ意味の言葉が2つあるのはもったいないので、
思想家は自分なりに定義して両者を使い分けたりしました。
例えば、カントは Moral を広い意味の言葉とし、
Moral (=道徳) の中に Recht (=法) と Ethik (=倫理) が含まれると定義しました。
ところが、ほぼ同時代のヘーゲルは逆に Ethik (=倫理) のほうを広い意味の語と定め、
Ethik (=倫理) の中に個人道徳である Moral と客観的な法体系である Recht が含まれる、
というふうにカントとは逆転させて使いました。
同時代の2人がまったく逆の使い方をしても許されるくらい、
元はと言えばどちらの語も大して違いはなかったということなわけです。
日本語の道徳と倫理にもほぼ同じようなことが言えます。
ですので、例えば辞書で 「倫理」 を引くとこう書いてあります。
「りんり 【倫理】
1 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「―にもとる行為」「―観」「政治―」
2 「倫理学」の略。」
このように 「倫理」 の説明の中に 「道徳。モラル」 と記されていたりします。
しかし、基本的に違いはないながらも、日本語としての道徳と倫理には、
ちょっとしたニュアンスの違いがあるように感じる人も多いでしょう。
そこで逆に辞書で 「道徳」 を引いてみると、その中には 「倫理」 という言い換えは出て来ず、
こんなふうに説明されていました。
「どうとく 【道徳】
1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。
3 《道と徳を説くところから》 老子の学。」
1の後半部分が重要です。
「法律と異なり、…内面的原理として働く」 と書かれています。
これは、ヘーゲル的な狭い意味での用語法になります。
辞書ではなく百科事典で 「道徳」 を調べてみるとこんな記述もありました。
「どうとく【道徳】
こんにちの用法では倫理という語と根本的な相違はない。倫とは仲間を意味し,人倫といえば,畜生や禽獣のあり方との対比において,人間特有の共同生活の種々のあり方を意味する。倫理とは,そういう人倫の原理を意味し,道徳もほぼ同様であるが,いずれかといえば原理そのものよりも,その体得に重点がある。すなわち,道とは人倫を成立させる道理として,倫理とほぼ同義であり,それを体得している状態が徳であるが,道徳といえば,倫理とほぼ同義的に用いられながらも,徳という意味合いを強く含意する。」
道徳と倫理は 「根本的な相違はない」 と言いながらも、
道徳は 「(倫理を) 体得している状態」 という意味合いが強いと書かれています。
先ほどの辞書で言う 「内面的原理」 というのもそういう意味合いを指しているのかもしれません。
やはり道徳というのはヘーゲルが言うように個人道徳のニュアンスが強くなるのでしょうか。
私はカント主義者なので、ヘーゲル的な使い方はあまり好きではないのですが、
一般の方々の語感を考えるとそうとばかりも言っていられず、
昨年出版した 『高校倫理からの哲学3 正義とは』 に書いた文章のなかでは、こう説明しました。
「『倫理』 という語の語源は、西洋語では 『習慣、慣習』 であるが、ここでは漢字の 『倫理』 についてのみ確認しておくことにしたい。『倫』 という文字は 『仲間』 とか 『人びとの集まり』 を表している。『絶倫』 というのは、仲間うちでずば抜けてすぐれているという意味である。『理』 という文字は、もともと 『玉石を磨いたときに現れる筋のある模様』 を表していた。そこから、人間関係の中で通すべき 『筋目』、つまり、決まりごと、ルール、義務、といったようなものも意味するようになった。したがって、『倫理』 とは、人びとが集まってきたときに必ずできる決まりやルールのことを意味するのである。習慣とか礼儀作法とか義務とか道徳とか法律とか、そういったものはすべて 『倫理』 である。
(中略)
『倫理』 という語のほかに 『道徳』 という語もある。この2つはほぼ同じ意味のことばである。『道徳』 という語の西洋語の語源もやはり 『習慣、慣習』 であるが、それよりも広く、『人のふみ行うべき道』 全般を指すことばとして使われている。なお現代では、『道徳』 は個人の内面的なものに限定し、『法律』 のように外的強制力をもつものとは区別するような使われ方が増えてきている。思想家によって語の定義の仕方は異なっているのだが、ここでは、習慣や道徳のような内面的なものも、法律のような外面的なものも合わせて、人びとの集まりの中に必ずできる決まりやルールなどをすべて 『倫理』 と呼ぶことにしたい。」
この文章は倫理と道徳の違いを説明したというよりも、カントやヘーゲルの場合のように、
自分としてはこの論文ではこういうふうに使い分けることにしますよと宣言した文章になっています。
けっきょくのところ、それぐらいの違いしかありませんよというのが、
今回の質問に対するお答えになるのではないでしょうか。
あまり役に立たない答えでゴメンね。
P.S.
ところで、先ほどの辞書の 「倫理」 の定義の中の2に、
「『倫理学』 の略」 と書かれていました。
私は一貫して 「倫理」 と 「倫理学」 はまったく違うものだと主張していますが、
一般には 「倫理」 とだけ言えばそれは 「倫理学」 のことを指すという理解もあるようです。
そう考えてみると、小中学校では 「道徳」 の時間が置かれていて、
子どもに 「善悪をわきまえて正しい行為をなすために守り従わねばならない規範」 を 「体得」 させる、
ということが目指されているのに対して、
高校では公民科という教科の中に 「倫理」 という科目が置かれて、
「人として守り行うべき道」 や 「善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの」 が、
はたしてどのようなものであるのかを考えさせることを目的としている、
というのは適切な使い分けであるのかもしれません。
カント:「繰り返し、じっと反省すればするほど常に新たにそして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心を満たすものが二つある。わが上なる星の輝く空とわが内なる道徳法則である。」
アインシュタイン:「私に畏敬の念を抱かせるものはふたつあります。星が散りばめられた空と、内なる倫理的宇宙です。」
この二つの言葉の共通点と違いについて、14歳くらいの子ども(娘です)でも分かるような説明をして頂けると嬉しいです。
実は私はアインシュタインのその言葉は知りませんでした。
ネットで検索してみたところ、アインシュタインの名言のひとつとして取り上げられているようですが、
どんな文脈で言われ、前後でどんなことが語られているかまで調べがつかなかったので、
その部分だけを切り取って聞いた上での回答になることをお許しください。
まず、アインシュタインはその言葉を、カントの言葉を知った上で、
それを念頭に浮かべながら言ったということは間違いないと思います。
つまり、2人の考えがたまたま合致したのではなく、アインシュタインはカントの考えに共鳴・共感して、
カントの言葉を引用したということです。
カントの言葉はカントの墓碑銘にも使われているくらい有名で、
カントの思想を端的に表しています。
正確無比に繰り返される天体の運行法則に代表されるような自然の神秘。
これは私たちの外にある自然の世界がみごとに秩序だって営まれていることに対して、
感嘆と崇敬の念を引き起こします。
それと比べると人間なんて本当にちっぽけな存在なのですが、
ところが人間はみな自らのうちに道徳法則を持っています。
どんな悪人であっても、「人の物を盗んではいけない」 とか 「人を殺してはいけない」 ということを知っています。
泥棒は自分以外のみんなが泥棒であることを望んでいません。
みんなには真面目に働き生産に従事してもらい、自分だけが例外であることを望んでいます。
つまり、泥棒ですら 「人の物を盗んではいけない」 という道徳法則を共有しているのです。
道徳法則の命令は絶対で、神にも天使にも通用するものです。
人間はちっぽけで弱く道徳法則に反してしまうことがしばしばですが、
でもそんなすべての人間の中に確実に道徳法則は存在しています。
その道徳法則は自然の法則と同じように人間に対して感嘆と崇敬の念を湧き起こさせるのです。
アインシュタインはカントのこの思想に共感したのでしょう。
したがって基本的に2人の言葉は同じことを表していると言っていいと思います。
違いを指摘するならば、カントが 「道徳法則」 という言葉を使ったのに対して、
アインシュタインはそれを 「倫理的宇宙」 と言い換えています。
カントの 「道徳法則」 が表しているのは、カント特有の 「定言命法」 という倫理思想です。
カントは 「定言命法(=道徳法則)」 が命ずる義務というものを重視した倫理学者でした。
ただそれは倫理学史のなかではあまりメジャーな考え方ではありません。
カントは愛とか勇気などよりも、義務を忠実に果たすことを重視するのですが、
そんなことよりもっと大切なものは他にあるだろうと考える倫理学者はたくさんいます。
ここから先はたんなる推測になってしまいますが、
おそらくアインシュタインもカントの義務を重視する考え方には賛成していなかったのではないでしょうか。
そこで 「道徳法則」 という言葉を 「倫理的宇宙」 という言葉に言い換えたのだと思われます。
アインシュタインの 「倫理的宇宙」 が何を指すのかは知りません。
それが人間の心の中にあるものだということはカントと共通していると思いますが、
それが実際にどのようなものであるのかは、そのうちきちんとアインシュタインの書いたものを読んで、
もしもちゃんと理解できたらまた書き足してみたいと思います。
私は難しいことはわからずカントの書物を読んでいなかったのですが、高校の倫理の教科書でこの言葉に共鳴しそらで覚えていました。そして、その後大人になって読んだ「アインシュタイン150の言葉」で出てきたこの言葉を科学者のアインシュタインがカントの名言を引用したのかそして言い換えた部分とは何なのかという疑問がずっとこれまで頭に残っていたのです。
しかし、今までに何度も検索をすれどもすれども見つかりませんでした。
娘も倫理学の授業を受ける時期が近づいてきましたので、そろそろ答えが欲しいと思い思い切って質問させて頂いた次第です。
“正確無比に繰り返される天体の運行法則に代表されるような自然の神秘への感嘆と崇敬の念”、そして“自然の法則と同じように人間に対して感嘆と崇敬の念”この二つは二人に共通していて、「定言命法=道徳法則」 という言葉を 「倫理的宇宙」 にアインシュタインは置き換えた、それは、アインシュタインもカントの義務を重視する考え方には賛成していなかったからではないかと。
(という解釈でよろしいでしょうか。)
はい、お忙しいと思いますがお時間の許す限り、この疑問にお付き合い頂ければと思います。
本当にありがとうございます。
ところで私はいくらカントがpraktischな使用によって理性の復権を図ろうとしても、やはりこれはイデアールなままであり、そこには現実の「他者」というものの無理解が感じ取れると思うのです。レヴィナスの「顔」と全く同じようなことを当のフロイトが、無意識的なのか、ともかくも無自覚的に - と私には見て取れます - 、赤ん坊が母親(フロイトはNebenmenschと呼び、その顔はneu und unvergleichbar ··· seine Züge(つまり赤ん坊である主体とは全く相容れないもので)、さらにこの顔についてdas Dingと異質なもの扱いさえしているのです(『心理学草稿』で出てきます。フロイト自身このテキストについて他の自身のテキストにおいて全く参照、言及していません。ところでどういうわけかフロイトはこの母親と赤ん坊との関係についての件に関連してmoralischという語を用いています)。