看護学校で 「Q.結婚をする意味は何ですか?」 という質問をいただいていました。
この質問に答えるためには、まず 「Q.結婚とは何か?」 という問いに答えておかなくてはならず、
かつてその質問には答えたことがあったような気がして、過去ログを探していたんですが、
一向に見つからないうちに、いただいた質問のこともすべてすっかり忘れておりました。
誠に申しわけありません
。
看護学校の皆さんはもうぼくのブログなんてご覧になっていないだろうと思いますが、
せっかく思い出したので書き留めておこうと思います。
結婚とは何かについてすでに答えたことがあるような気がしていたのは、
たぶん代表質問として授業内で聞かれることが多く、口頭でお答えしてしまっていたから、
ブログには残っていなかったのでしょうね。
ブログ内で 「結婚とは」 で検索してみると、「愛と尊敬のバランス」 という記事がヒットします。
これは授業のなかでお話ししたカントの友情論を紹介した記事ですが、
カントの友情論は結婚論にも転用できるので、最後にこう結論づけておきました。
「結婚とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。」
カッコいいんですが、カントにとってみるとこれはあくまでも友情について論じたことだったわけで、
じゃあカント自身は結婚について何と言ってるかというと、聞いて驚きますよ。
「結婚とは、両性が相手の性的特性 [=生殖能力] を生涯にわたって占有し合うための結合である。」
うわー、夢がねぇ。
友情論の格調の高さに比べるとゲスの極みですよね。
まあ、18世紀という時代を考えれば、これでも十分リベラルで進歩的ではあるのですが、
結婚とはお互いの性器を使用し合うことである、だなんてちょっと結婚式の祝辞では言えません。
どうせ使うのなら友情論のほうを改作して言ってあげたくなる私の気持ちもわかってもらえるでしょ?
さて、それではカントを離れて私自身の言葉として結婚をいかなるものと定義するのか。
これまで代表質問として聞かれてよく答えていたのは次のような答えでした。
Aー1.結婚とは他人と一緒に暮らすことである。
これもまあ夢がないっちゃあないんですが、
結婚に対して夢を抱きすぎている若者に (特に女性)、
現実を突きつけるつもりでいつもこのセリフを口にしています。
とりわけ夢見る女の子たちは、結婚というと結婚式をイメージしてしまうかもしれませんが、
あんなものは結婚の入り口に用意されたほんの一瞬の華やかなセレモニーにすぎません。
結婚の本質はその後に何年も何十年も続いていく結婚生活のなかにこそあるのです。
その結婚生活を一言で表すとするならば、それはやはり他人と一緒に暮らすこととなるでしょう。
これに対して 「結婚とは好きな人と一緒に暮らすことだと思います」 と、
ちゃんと自分の頭で考えた対案をもらったことがあります。
教員の言うことだからってそのまま鵜呑みにしないで、
自ら考え、自らの意見をきちんと表明するその姿勢には感銘しましたが、
残念ながら内容的には同意できませんでした。
「好きな人と一緒に暮らすこと」 というのはとてもロマンティックでいいのですが、
すべての結婚を言い表したものではないように思います。
というのも、今でこそ恋愛結婚が主流になってしまっていますが、
それとは別にお見合い結婚というのもまだちゃんと残っているわけですし、
家制度が色濃く残っていた時代には政略結婚のような愛の微塵もない結婚が普通にあったのです。
さらに言えば、恋愛の延長上で結婚したとしても、
いつまでもその恋愛が長続きするわけではありません。
あんなに愛し合っていたのに何かのきっかけで愛が冷めてしまうということは普通にあるでしょう。
そうなったとしても離婚してしまわないかぎりはその相手と一緒に暮らさなきゃいけないわけです。
そう考えると 「好きな人と一緒に暮らすこと」 というのは、
結婚というよりも同棲のほうに当てはまる定義であって、
結婚というのはやはり 「他人と一緒に暮らすこと」 だと思うのです。
「他人と一緒に暮らす」 という言い方で私が表したいのは、
それぞれ別の家庭で育ち、別の生活習慣を育み、別の価値観 (常識) を持っている者どうしが、
新たに同じ屋根の下で一緒に暮らし、新しい家庭を築いていかなければならない、ということです。
恋愛結婚の場合は、恋愛期間中に相手のことを理解し、相手と自分が似ていると思えたから、
結婚に踏み切ったという場合が多いかもしれません。
しかし、恋愛期間中にいくら意気投合し、
「考えてること、感じていること、そう、本当に似てるねぇ♪」 と思って結婚したとしても、
一緒に生活を始めてみると本当に小さな細々した事柄でふたりの常識 (=当たり前) が全然ちがう、
ということを痛感させられることになるでしょう。
歯の磨き方、洗濯物の干し方、掃除の作法、料理の味付けその他、
ほんのちょっとした日々のすれ違いが無限に生じてくるのです。
ここに家族の問題が絡んでくるとさらに事態は複雑化していきます。
相手の親族との集まりでは目を疑うような言動に振り回されることもしばしばでしょう。
あれだけ気が合うと思っていた相手も、実家では全然別人格に変身してしまうかもしれません。
このように、どれだけ好きで結婚した相手であってもつまるところは他人なのです。
結婚とは他人と一緒に暮らすこと、結婚するすべての人間にはこの覚悟が必要だと思います。
そのような戒めを込めて、若い人たちにはこの結婚の定義を語ってきました。
しかしながら、冷静に考えてみると、この定義はまだ広すぎて、
結婚以外の事柄をいろいろと含んでしまっています。
例えば、養子縁組というのも他人と一緒に暮らすことですし、
今流行りのルームシェアも他人と一緒に暮らすことに含まれるでしょう。
というわけで、今日のこの第1段階の答えではまだ結婚のことを精確に言い当てられてはいません。
もう少し丁寧に定義する必要があるのですが、それはまた次回以降に持ち越すことにいたしましょう。
この質問に答えるためには、まず 「Q.結婚とは何か?」 という問いに答えておかなくてはならず、
かつてその質問には答えたことがあったような気がして、過去ログを探していたんですが、
一向に見つからないうちに、いただいた質問のこともすべてすっかり忘れておりました。
誠に申しわけありません
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看護学校の皆さんはもうぼくのブログなんてご覧になっていないだろうと思いますが、
せっかく思い出したので書き留めておこうと思います。
結婚とは何かについてすでに答えたことがあるような気がしていたのは、
たぶん代表質問として授業内で聞かれることが多く、口頭でお答えしてしまっていたから、
ブログには残っていなかったのでしょうね。
ブログ内で 「結婚とは」 で検索してみると、「愛と尊敬のバランス」 という記事がヒットします。
これは授業のなかでお話ししたカントの友情論を紹介した記事ですが、
カントの友情論は結婚論にも転用できるので、最後にこう結論づけておきました。
「結婚とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。」
カッコいいんですが、カントにとってみるとこれはあくまでも友情について論じたことだったわけで、
じゃあカント自身は結婚について何と言ってるかというと、聞いて驚きますよ。
「結婚とは、両性が相手の性的特性 [=生殖能力] を生涯にわたって占有し合うための結合である。」
うわー、夢がねぇ。
友情論の格調の高さに比べるとゲスの極みですよね。
まあ、18世紀という時代を考えれば、これでも十分リベラルで進歩的ではあるのですが、
結婚とはお互いの性器を使用し合うことである、だなんてちょっと結婚式の祝辞では言えません。
どうせ使うのなら友情論のほうを改作して言ってあげたくなる私の気持ちもわかってもらえるでしょ?
さて、それではカントを離れて私自身の言葉として結婚をいかなるものと定義するのか。
これまで代表質問として聞かれてよく答えていたのは次のような答えでした。
Aー1.結婚とは他人と一緒に暮らすことである。
これもまあ夢がないっちゃあないんですが、
結婚に対して夢を抱きすぎている若者に (特に女性)、
現実を突きつけるつもりでいつもこのセリフを口にしています。
とりわけ夢見る女の子たちは、結婚というと結婚式をイメージしてしまうかもしれませんが、
あんなものは結婚の入り口に用意されたほんの一瞬の華やかなセレモニーにすぎません。
結婚の本質はその後に何年も何十年も続いていく結婚生活のなかにこそあるのです。
その結婚生活を一言で表すとするならば、それはやはり他人と一緒に暮らすこととなるでしょう。
これに対して 「結婚とは好きな人と一緒に暮らすことだと思います」 と、
ちゃんと自分の頭で考えた対案をもらったことがあります。
教員の言うことだからってそのまま鵜呑みにしないで、
自ら考え、自らの意見をきちんと表明するその姿勢には感銘しましたが、
残念ながら内容的には同意できませんでした。
「好きな人と一緒に暮らすこと」 というのはとてもロマンティックでいいのですが、
すべての結婚を言い表したものではないように思います。
というのも、今でこそ恋愛結婚が主流になってしまっていますが、
それとは別にお見合い結婚というのもまだちゃんと残っているわけですし、
家制度が色濃く残っていた時代には政略結婚のような愛の微塵もない結婚が普通にあったのです。
さらに言えば、恋愛の延長上で結婚したとしても、
いつまでもその恋愛が長続きするわけではありません。
あんなに愛し合っていたのに何かのきっかけで愛が冷めてしまうということは普通にあるでしょう。
そうなったとしても離婚してしまわないかぎりはその相手と一緒に暮らさなきゃいけないわけです。
そう考えると 「好きな人と一緒に暮らすこと」 というのは、
結婚というよりも同棲のほうに当てはまる定義であって、
結婚というのはやはり 「他人と一緒に暮らすこと」 だと思うのです。
「他人と一緒に暮らす」 という言い方で私が表したいのは、
それぞれ別の家庭で育ち、別の生活習慣を育み、別の価値観 (常識) を持っている者どうしが、
新たに同じ屋根の下で一緒に暮らし、新しい家庭を築いていかなければならない、ということです。
恋愛結婚の場合は、恋愛期間中に相手のことを理解し、相手と自分が似ていると思えたから、
結婚に踏み切ったという場合が多いかもしれません。
しかし、恋愛期間中にいくら意気投合し、
「考えてること、感じていること、そう、本当に似てるねぇ♪」 と思って結婚したとしても、
一緒に生活を始めてみると本当に小さな細々した事柄でふたりの常識 (=当たり前) が全然ちがう、
ということを痛感させられることになるでしょう。
歯の磨き方、洗濯物の干し方、掃除の作法、料理の味付けその他、
ほんのちょっとした日々のすれ違いが無限に生じてくるのです。
ここに家族の問題が絡んでくるとさらに事態は複雑化していきます。
相手の親族との集まりでは目を疑うような言動に振り回されることもしばしばでしょう。
あれだけ気が合うと思っていた相手も、実家では全然別人格に変身してしまうかもしれません。
このように、どれだけ好きで結婚した相手であってもつまるところは他人なのです。
結婚とは他人と一緒に暮らすこと、結婚するすべての人間にはこの覚悟が必要だと思います。
そのような戒めを込めて、若い人たちにはこの結婚の定義を語ってきました。
しかしながら、冷静に考えてみると、この定義はまだ広すぎて、
結婚以外の事柄をいろいろと含んでしまっています。
例えば、養子縁組というのも他人と一緒に暮らすことですし、
今流行りのルームシェアも他人と一緒に暮らすことに含まれるでしょう。
というわけで、今日のこの第1段階の答えではまだ結婚のことを精確に言い当てられてはいません。
もう少し丁寧に定義する必要があるのですが、それはまた次回以降に持ち越すことにいたしましょう。
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