まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

カント倫理学に対するまさおさまの立場

2020-07-06 14:07:07 | 「倫理学概説」
「倫理学概説」でカント倫理学を取り扱ったのは第4回のときでしたが、
その後もなぜだかよくカント倫理学について聞かれます。
特にカント倫理学に対する私のスタンスを問われることが多いです。
ひとつはこんな質問。

「Q-1.先生はカントの倫理学についてどのような立場をとっていますか。私は幸福主義の文章を読んでなるほどと思いましたが、それ以上追求したいとは思いませんでした。なぜなら、幸福主義について納得してしまったからです。一方、カントの倫理学などは正直あまり理解できませんでした。しかし、理解できなかったからこそもう少し知りたいと思いました。先生がなぜカントの倫理学を研究しているのかを教えていただければ幸いです。」

最後に書かれている 「なぜカントを研究しているのか」 に関しては、
以下の3つのブログ記事をご覧いただければと思います。

  「Q.一番好きな哲学者は誰ですか?」

  「Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その1)」

  「Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その2)」

これらを読んでいただければ、最初に書かれた問い
「先生はカントの倫理学についてどのような立場をとっているか」
についても、自ずからわかってもらえるでしょう。
あるいは、これらのブログを読まなくとも、
学修指示書の中で自分がカント主義者であることはすでに公言していたかもしれません。
したがって次のような質問もいただいておりました。

「Q-2.以前先生のブログ記事を読んだ際、先生はカント派の人間である、ということを仰っておりましたが、倫理学研究者の中では 『私はカント派である』 と言ってしまうと、カントの主張すること全てに賛成しなければならないのでしょうか? ちなみに、私はカントとは多少違う考えを持ち合わせていても何ら不思議はないと考えております。先生としては、今更何を聞いてくるんだ、と呆れていることは容易に想像できますが、気になったので質問させていただきました。」

別にこう聞かれたからといって呆れたりはしません。
当然ありうる質問ですよね。
これに関しては、実は第2回のときに読んでもらった以下のブログ記事の中にすでに書いてあります。

  「Q.倫理学者は倫理的な人ばかりですか?」

この記事のなかの一番最後のところに、こう書いておきました。
「私はカント派なので第2段階レベルの倫理学者をめざしていますが、
 でもカントはけっこう怪しいこともいろいろ言っていて、
 そうするとどうしても新たな問いが湧き上がってきてしまうので、
 第2段階に留まるのはなかなか難しいですね。」
ここで言う 「第2段階レベルの倫理学者」 というのは、
「本当の普遍的な倫理を追い求めていく」 カントのような倫理学者のことです。
まさにこの2回皆さんに考えてもらっていた 「普遍的な倫理」 を
私も追い求めているわけで、そこがカントに惹かれるポイントでもあるわけです。
しかし、ではカントが打ち立てた義務論的・動機主義的倫理学こそが普遍的な倫理であると、
全面的に信奉しているかというと、なかなかそうはいかないわけです。
賛同する部分もあるけれど、ヘンだなと思う部分もあるわけで、
そもそも哲学や倫理学というのはそういう学問なのであって、
誰かが唱えた学説をそのまま全部鵜呑みにするような人はおよそ、
哲学者・倫理学者とは言えないのです。
それは自分が一番好きな哲学者の学説であったとしても同じなのです。

そこで最初の質問者の方の冒頭の質問に戻って、
私はカント倫理学に対してどういう立場に立ち、
どういう部分に賛成し、どういう部分に反対しているのでしょうか。
実はこれに関しても、皆さんにすでに読んでもらったブログ記事に書かれていたはずなのです。
こちらです。

  「カント倫理学の魅力と限界」

鋭い人であれば、「魅力と限界」 というタイトルが、
賛成しているところも反対しているところもあることを表していた、
ということに気づいてくれていたかもしれません。
ただまああの記事は学生の皆さんのための書き下ろしではなく、
日本倫理学会で名だたる倫理学者の方々と議論するために書いた文章を転載したもので、
カント倫理学のことはみんな知ってるという前提で書かれていたので相当難しかったですよね。
でも、今読んでみると第4回に読まされたときよりはだいぶ理解できると思うので、
ぜひもう一度チャレンジしてみてください。
私はあの中でカント倫理学の特徴を8つ挙げておきましたので、
それを使いながら私の立場を説明したいと思います。

まず最初に 「1.道徳的立場の選択」 ですが、
これに対しては全面的に賛成しています。
私は倫理学にとっては、普遍的な道徳的立場に立つことが最も重要であり、
倫理学にとっての最大の敵は利己主義であると考えています。
自分さえよければ、自分たちさえよければという利己主義者を見ているとムカムカします。
最新の倫理学では利己主義でいいんだ、
自分の利益を守るためにこそ倫理は発展してきたんだ、
と唱える進化倫理学が主流になりつつありますが、
それに対してはカントとともに断固として反対していきたいと思っています。

続いて 「2.形式主義と理性主義」 ですが、これはひじょうにビミョーです。
2つ含まれているうちの 「理性主義」 にはある程度賛成しています。
哲学や倫理学は、「理性」 すなわち 「ロゴス(=ことば)」 の産物でしかありえない、
と私は考えています。
カントのように理性に絶対の信頼を寄せているわけではありませんが、
しかし、「本能の壊れた動物」 としての人間は、
ロゴス (理性、ことば) を駆使して何とかやっていくしかないと考えているので、
カントの理性主義には基本的に賛同しています。
そして、第1で述べたように、普遍的な立場に立つことが重要だと考えているので、
カントが前面に押し出す 「普遍性の形式」 にも基本的には賛同するのですが、
じゃあ自分は 「形式主義者」 かというとちょっとそこは素直にウンとは言い難いです。
これは後の論点とも関連しますが、
カントは 「形式主義」 をとことんまで徹底しすぎて、
「ちょっと何言ってるかよくわからない」 という域にまで達してしまっており、
それはいくら何でもやりすぎだったんじゃないかなあと思っております。

「3.反幸福主義」 にも、「4.感情軽視」 にも基本的に賛成しています。
第3回のときに読んでもらったブログに書いたように、
幸福になること、幸福にすることを倫理学の原理として立てることはできないと思います。
また、上記2の前半で書いたように、
倫理学はロゴスに基づいて構築するしかないので、
人間の壊れてしまった本能や、移ろいやすい感情や感性や欲求なんかに依拠して、
首尾一貫した倫理学を打ち立てることはできないだろうと思います。
その意味ではカントに全面的に賛成と言ってしまってもいいのですが、
倫理学の原理にするか否かというところとは別にするならば、
幸福や感情の問題は人間にとってきわめて重要だと私は思っており、
このブログでも幸福や感情のことばかり書いているので、
このブログを読む限り、私のことを反幸福主義者であるとか、
感情軽視論者であると思う人はそんなにいないかもしれません。
カント研究者のあいだでも、私は快楽主義者と思われているらしく、
よく 「なぜお前なんかがカントを研究しているのだ」 と言われたりします。
自分がカントのリゴリズム (厳格主義) とはほど遠い存在であることは自覚しているので、
倫理学者としてカントの反幸福主義や感情軽視論に賛同していることと、
現実の生活者としてカントの教えを実践していないように見えることとの間にある、
大きなギャップをどう埋めていくのか、今後考える必要があると思っています。

今の話とも関連しているのですが、
カント倫理学のなかで私が最も憧れると同時に最も疎外感を感じるのは、
「5.究極的善への志向」 のところです。
先に 「なぜカントを研究しているのか」 にお答えするブログとして読んでもらったなかに、
「カント哲学のもつ崇高な 『理想』 の力に魅せられた」 と書きました。
このあと 「8.理想と現実の峻別」 でも触れるわけですが、
カントはロゴス (=理性) の力を総動員して理想を理想として極限まで純化しました。
人間にはまったく及びもつかないような究極の善を提示してみせたのです。
その究極的善は人間にとっての実現可能性などまったく歯牙にもかけない、
とことんまで研ぎ澄まされた理想です。
自分がそれに近づきたいとか、近づけるよう努力してみたいなんてまったく思わせない、
ただひたすら圧倒されるしかないような遠い遠い理想です。
自分にはまったく無理だとわかっているがゆえに、
それは限りなく貴いものだと憧れずにはいられませんでした。
「魅力と限界」 の最後で 「作品 (理性の産物) としての完成された美を認めている」
と書いたのはそのためです。
しかし、憧れる一方で、「カントの善はあまりにも純化されすぎていて、
通常の人間からかけ離れたものとなってしまっている」 とも思わざるをえません。
この倫理学は普通の人間にとって何か生きる指針を与えてくれるのだろうか。
人間に対して人間の不完全性を突き付け、
無力感や疎外感を感じさせるだけの空虚な理想ではないのか。
つまり、作品としては果てしなく美しいのだけれど、
現実の人間の生き方には何の影響も与えられないのでないか、とも思うのです。
したがってこの 「5.究極的善への志向」 の部分は、
これこそカント倫理学の真骨頂と畏敬の念をもって評価する半面、
これは、私の求める倫理学ではないし、私が倫理学に求めているものでもないなあ、
と思わざるをえないのです。
魅力と限界が同居しているこの両義的な感じを理解していただけるでしょうか。

カントの狭い意味での倫理学は2~5によって成り立つ 「批判倫理学」 でした。
しかしカントは、その作品として完成された 「批判倫理学」 を打ち立てただけでなく、
晩年には 「6.正と善を包含する規範体系」 をも打ち立てようとしました。
「魅力と限界」 のなかではそれを私は 「実践哲学体系」 と呼びましたが、
私がずっと研究対象にしてきたのはこの 「実践哲学体系」 のほうなのです。
こちらは人間の有限性にも配慮した、人間にとっての義務の体系です。
これは 「批判倫理学」 とは異なる立脚点に立って構築されているので、
正統的なカント研究者には毛嫌いされてきました。
しかし、私が考える倫理学というのは、
人間が人間であるがゆえに守らなければならない普遍的な規範の体系を提示すること、
だったので、「批判倫理学」 よりも晩年の 「実践哲学体系」 のほうに大きな魅力を感じ、
これをずっと研究してきました。

そのなかでも特に、「7.世界市民主義」 のところに一番惹かれています。
文化や国家や宗教などの違いを超えて、人類が世界市民として共有する義務は何か。
多様な人間たちが多様性を保持したまま、
互いに世界市民として共存し、「永遠平和」 を築いていくにはどうしたらいいのか、
そのような普遍的な倫理を打ち立てていくことこそが、
現代の倫理学 (実践哲学) の使命だと思うのです。

私がカント倫理学 (実践哲学) のなかでも6や7の部分に一番賛同している、
ということはご理解いただけたでしょうか。
6や7においてもあいかわらずカントは 「8.理想と現実の峻別」 を徹底しているので、
私が出発点において感じていたカント倫理学の 「崇高な理想の力」 は健在です。
ただ、5と8が結びついたときには憧れよりも疎外感のほうが絶大でしたが、
6や7と結びついた8はそこまで排他的ではなく、
むしろ適度な緊張感を与えてくれる、
いい感じの目標としての 「理想」 を提供してくれるので、とても魅力的です。

以上、カント倫理学に対する私のスタンスをわかっていただけたでしょうか。
まとめると、1、6、7に関しては全面的に賛成、
2、3、4、5、8に関しては賛同する部分もありつつ、
ちょっと違うところや疑問に思うところもある、ということになるでしょうか。
書き始めたときはもっとサクッと書き終わるかと思っていましたが、
けっこうダラダラと長い話になってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。


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